【ノルマンディー上陸作戦70周年記念(5)】 6月6日Dデー・・・上陸作戦当日・前編 〈3JKI07〉

こうした混乱の中で、6日の早朝までにはマシュー・B・リッジウェイ少将の第82空挺師団は、前述の通り交通の要衝であるサント・メール・エグリーズを解放し、同師団の(映画『史上最大の作戦』でジョン・ウェインが演じた)ベンジャミン・ヴァンダーヴォルト中佐と彼の大隊はシュルブールに通じる幹線道路を封鎖し独軍の反撃に対する防備を固め、「ジャンピン・ジム」との異名を誇る副師団長ジェイムズ・M・ギャビン准将がまとめた寄せ集め部隊は、メルドレ川とドゥーヴ川にかかる主要な橋梁を確保し重要な道路や隘路口を押さえていた。そして数時間後には、独軍がユタビーチに上陸する連合軍部隊を迎撃する為にこれらの橋を通過しようとして激戦が繰り広げられたが、結局は米軍空挺部隊が守り通した。

また夜明けの時点で、マックスウェル・D・テイラー少将の第101空挺師団では約1,100名程度(6日の夜には2,500名に増加)が集結出来た。そして彼らの一部は(テレビ・シリーズ『バンド・オブ・ブラザース』で描かれている)ブレクール・マノール砲塁を攻略し、また他の部隊はラ・バルケットの水門を目指して進軍中であった。そして大佐や中佐に率いられた中隊規模の部隊が複数、予定される海岸の橋頭堡との連絡線を確保するべく行軍を続けていた。

但しこの頃、両師団は互いの戦況を知り得る状態にはなく、それどころか二人の師団長は、未だに自らの師団傘下の各部隊の状況も把握していなかった。また各部隊間の連絡は途絶えており、相互の連携は困難であった。

その他の多くの兵士たちは、小人数のまま自らの才覚を頼りに敵と渡り合いながら戦闘を継続し、そして独軍を攪乱し続けながら上陸作戦の初日の朝を迎えた。

一方、ノルマンディー上陸作戦対象地域の東側面地区における英連邦軍空挺部隊の降下作戦も始まっていた。

この一連の英軍第6空挺師団による作戦は「トンガ作戦」と呼ばれたが、その作戦の狙いは、重要な橋梁などの緊要地を確保したり、海岸に上陸直後の部隊が砲撃を受けないように、重砲が設置してある独軍の砲台を占拠し破壊することだった。そして上陸部隊の側面地域を確保制圧して、独軍の組織的な反撃攻勢を阻止するのだ。

しかしこの日、現実には英軍空挺部隊の先導降下隊員(パスファインダー)や先遣偵察隊は、米軍空挺部隊以上に広範囲に拡散して降下していた。嵐といっても良い程度の強風が彼らを襲っていたのである。そしてこのことが、多くの悲劇をもたらした。目標地点から遠く離れて降下した為に、本隊誘導の任務が達成出来なかった者が多かった(これが作戦に大きな支障を来たした)が、更に多数の不運な隊員が湖沼上に流されて溺死したのである。(中には独軍第711歩兵師団司令部の中庭に降下し、師団長のヨーゼフ・ライヘルト少将を慌てさせた先導降下隊員もいた)

英軍第6空挺師団第6グライダー旅団所属のオックスフォードシャー&バッキンガムシャー軽歩兵連隊第2大隊D中隊及びB中隊と第249空挺野戦工兵中隊の一部工兵は、ジョン・ハワード少佐の指揮下で急襲部隊を編成、5日から6日にかけての深夜に二つの重要な橋梁、ペガサス橋(当時はベヌーヴィル橋)とホーサ橋(当時はランヴィル橋)を占拠し制圧するべくカーン運河とオルヌ川の間の目標地点を目指していた。(ちなみに、ホーサはホルサとも言い、英軍のグライダーの名称である)

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