この時、英軍空挺部隊が、隊員の集結に狩猟用のラッパを用いたのは有名である。その独特のある種物悲しい音を目指して、降下直後の混乱の中を兵士たちは移動していった。
そして午前3時20分(03:20時)頃、英軍第6空挺師団のグライダー本隊は、担当戦域において69機が強行着陸を実行したが、その内49機がランヴィル周辺の目的地に到着した。先遣工兵隊の奮闘でいくぶん整地化が進んでいたお蔭もあってか、一部には着陸時の衝撃で機体がグシャグシャとなったグライダーもあったが、全体的には損害は軽微であり、師団長のリチャード・ゲイル少将とその参謀たちも応援の兵員や資材、そして何よりも重要な対戦車砲とともに到着したのだった。(ゲイル少将の到着はもう少し早かった可能性もある。師団司令部先発隊と一緒であったという説や、最初の降下から2時間後にはランヴィル郊外の降下地点に到着していたという資料もある)
同日午後1時30分(13:30時)になり、上陸地点から急行してきたラバット卿(准将)率いる第1特殊任務旅団(コマンド部隊/グリーン・ベレー)が、ハワード少佐と彼の部隊(空挺部隊/レッド・ベレー)のもとへバグパイプの調べとともに到着する場面も小説や映画でよく知られている。
そして計画の正午(12:00時)に遅れて到着したラバット卿はハワード少佐に、「ハワード君、時間に遅れてすまん」と詫びたのだった。(バグパイプ奏者のビル・ミリンは『ブルー・ボンネットは国境を越えて』を奏しながら行進していたが、「自分は弾には当たらない」という運だけを頼みにしていたという。ペガサス橋の中央部に到達したミリンがラバット卿を振りむくと、銃弾が飛び交う中を卿はまるで自分の領地を散歩しているかのように静かに歩いていたが、ミリンに対してごく自然な様子で曲を吹き続けるように指示をしたという)
英空軍のトラフォード・リー・マロリー将軍は、このペガサス橋とホーサ橋の強襲作戦を「この戦争中、最も成功した航空作戦」と評した。
またモントゴメリーは1944年7月16日に、ジョン・ハワード少佐の卓越した指揮を称えて殊勲賞(DSO)を授与し、他の兵員には殊勲十字賞(DSC)を授けた。
もう一つの重要な目標はメルヴィル陣地にある4ヶ所の砲台、そしてそこの150mmカノン砲4門であり、特に上陸部隊の舟艇と兵員に砲撃を加えることが可能な重砲は速やかに破壊する必要があった。この作戦を遂行した部隊は、テレンス・オトウェー中佐指揮下の第3パラシュート(落下傘歩兵)旅団第9空挺大隊基幹の部隊(750名)であった。
事前の空爆において破壊出来なかったこれらの砲台を、もし午前5時30分(05:30時)までにオトウェーの部隊から目標達成の連絡が無い場合は、英国海軍の軽巡洋艦アレスーザが艦砲射撃することとされていた。
しかしオトウェー中佐率いる部隊は広範囲に散在する結果となり、当初の攻撃に参加できたのは、午前0時50分(00:50時)に降下を開始した主力部隊の中でも、集合地点に予定の午前2時50分(02:50時)に集まることが出来た、わずかに150名だけであった。
更に作戦遂行を妨げたのは、ジープやバズーカ、火炎放射器、迫撃砲、爆薬筒、地雷探知機などの重装備や機材、そして衛生兵、工兵、海軍への連絡係などの兵員が集合地点に到着していなかったことに加えて、同時攻撃を予定していたホーサ・グライダーが到着しなかったことによる。
また、支援の連合軍空軍の誤爆により、この作戦に参加する兵員が多数一時集結していたゴネヴィル・シュル・メルヴィルが爆撃され、同地の英軍部隊を混乱させたのだ。
しかしオトウェー中佐は、予定よりもはるかに少ない兵員と装備で独軍陣地を攻撃することを決断する。
午前4時30分(04:30時)頃、オトウェーは集結した人員を4班(3班との説もあり)の攻撃部隊に分けて独軍陣地を強襲した。