《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -10》 長宗我部盛親 〈25JKI28〉

さてこの後、盛親は豊臣秀吉の有力な家臣(後に五奉行のひとり)であった増田長盛に烏帽子親を依頼、その際に「盛」の字を偏諱されて長宗我部盛親として元服を果たすと、以降は父・元親に従い天正18年(1590年)の小田原征伐や朝鮮に渡海(天正20年/文禄元年:1592年~)して戦功を上げ、慶長2年(1597年)には父親と共に制定した『長宗我部元親百箇条』を発布、そして慶長4年(1599年)に元親が没すると家督(土佐国22万石)を継いだのだった。

だがその家督継承の経緯に疑念を抱いていた豊臣政権は、盛親を長宗我部家の正当な当主として最後まで認めなかったとする見解も存在する。つまり、盛親の家督継承と土佐国主の座に関して豊臣政権が承認したことを示す歴史上の記録は見当たらず、また豊臣政権下の大名に与えられる官位についても、元親の後継者である盛親が正式に官位を授けられたとの記録は無く、通称として(非公式に)名乗った「宮内少輔」や「土佐守」などは別として公式には仮名の「右衛門太郎」のままであったと云う。

 

翌慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦が勃発すると、当初は東軍に参加する予定で長宗我部勢6,600ほどの兵を率いて東方へ進軍していた盛親だったが、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれ、もしくは家康へ向けて送った密使が水口で長束正家に捕らえらた為に、やむなく西軍に転じ石田方に与したと伝わる。

その後、東軍方の(伏見城や安濃津城などの)諸城を攻め落とす戦に加わり、9月の初めには美濃に進攻した。そして同月15日の関ヶ原の合戦に参戦する。だが南宮山に布陣した盛親の前方(下方というべきか)に、徳川家康に内応する吉川広家が居座って動かず、毛利本隊(毛利秀元)や安国寺恵瓊の手勢、長束正家隊などと共に東軍との戦闘には加わることが出来ないまま(『宰相殿の空弁当』の故事)、敗戦を向かえることになった。

 

その後、東軍の追撃を振り切りなんとか土佐に逃げ帰った盛親は、懇意にしていた井伊直政を通じて家康に謝罪しようとするが、兄の津野親忠を誅殺してしまい、これが更に家康の怒りを増大させて長宗我部家の改易は決定、領土没収の上、盛親は蟄居となった。

この時、西軍の敗北と盛親の撤兵を聞いた兄の津野親忠は、徳川家康に接近を試みて、長宗我部家の存続を訴えかけたとされる。しかしこの行為を盛親は、親忠が藤堂高虎と組んで土佐半国を乗っ取ろうと画策しているとの、前述の久武親直の讒言を鵜呑みにして親忠を殺害してしまうのだった。また津野親忠殺害に関しては、親忠の処分に乗り気でない盛親の態度を見た久武親直の独断専行である、との説もある。

こうして大名としての長宗我部家は滅亡し、『一領具足』で鳴らした勇猛な家臣団は各地の大名家に再仕官する者や牢人となった者、そして帰農した者などと、散り散りになった・・・。

ちなみに、『一領具足』とは長宗我部氏が編成した兵農分離以前の武装農民や地侍による半農半兵の軍事集団の呼称である。また長宗我部家の改易後に土佐を治めた山内一豊の山内家では、この一領具足たちを含む長宗我部家の遺臣団を、藩士(上士)の下の身分である「郷士」として家来に取り込んだが、藩士との差別が際立っていたことで江戸時代を通じて(明治維新に至るまで)藩内の上下対立の原因となったことは有名である。

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