《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -10》 長宗我部盛親 〈25JKI28〉

牢人となった盛親の身柄は京都へ送られ、身一つで謹慎生活を送る事になった。京都・相国寺の近くに閑居(「相国寺門前、洛中柳ケ図子に住む」と伝わる)し、そこでは『大岩祐夢(幽夢とも)』と名前を変えて旧臣ら(藤堂家々臣の桑名吉成など。吉成は長宗我部時代は先手大将を務め、後に大阪の陣の八尾の戦いでは盛親の長宗我部勢と激闘を繰り広げて討死するが、旧主との戦いに際し自ら乱戦に突入して死を求めたとも伝わる)の援助で暮らしていたとされるが、寺子屋の師匠となったとの記録もある。そしてこの牢人生活は14年間にわたることになった。

またこの頃、清原秀賢(明経博士で式部少輔、従四位上の公家)と交友があったとの記録も残っている。いずれにしても反徳川派の危険人物として、京都所司代の板倉勝重らの厳重な監視下に置かれていたと思われる。

ちなみに『大岩祐夢』の号に関して、「大岩は大願に通じ祐夢は天祐に通じるため、天祐を信じて打倒徳川の夢を追うのか」と問われた際の盛親は「大きな岩は動かないものだ」と恍けたという。

しかしこの京都時代の盛親に関する最新の研究では、1601年頃に大坂屋敷から伏見屋敷へと移り、そこに1605年頃まで住んでいた様子が確認され、その後、剃髪して『大岩祐夢』と名乗ったのが1610年頃であり、1612年頃迄に洛中柳ケ図子に移住したことが島津家の文書などから分かってきたという。

つまり盛親が洛中に住んでいた期間は、従来の説よりもかなり短かったのではないかとされ、その頃、彼は大いに困窮したと考えられがちだが、彼の住んだ柳ケ図子は今でいう高級住宅地であり、前述の様に一部の旧臣や縁ある有力寺院などからの支援で、それなりの生活を送ることが出来たとも考えられている。

 

慶長19年(1614年)秋、盛親は豊臣秀頼の招き(豊臣方勝利の暁には、土佐一国を与えるとの約束)に応じて京都を脱出し、大阪城に入城した。当初、わずか6名の供回りと出発したのが、かつての旧臣や他家の牢人衆などがみるみる内に合流して 1,000名もの大部隊となったと言われている。

こうして大坂城に集結した牢人武将の中では最大級の勢力を率いることとなった盛親は、真田信繁や後藤基次、毛利勝永、そして明石全登らとともに、所謂(いわゆる)「牢人五人衆」に数えられ、主力の戦闘部隊を担っていく。

しかし若い頃は短気だったとされる盛親だが、14年にも及ぶ牢人時代の辛く長い生活体験がそうさせたのか、大坂城では控え目な態度に終始している。真田信繁や後藤基次に作戦面での差配を任せ、専ら自らはその計画に同意するだけに徹していたとされるのだった。

やがて大坂の冬の陣が始まり、木村重成や後藤基次らと共同して二の丸の西中央と三の丸の八丁目口・谷町口に布陣し、真田信繁が築いた真田丸の支援を行った。そして真田丸の戦いが始まると、城内の火薬が誘爆した際に、これを南条元忠の寝返りの合図と勘違いして押し寄せて来た井伊直孝隊や松平忠直隊に応戦し、大きな損害を与えて退却させることに成功したが、冬の陣ではこれ以外に大規模な戦闘は発生せず、その後は膠着状態のまま和議が成立する。

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