《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -10》 長宗我部盛親 〈25JKI28〉

翌年の夏の陣では、盛親は木村重成などの豊臣方諸将と共に八尾・若江方面に出撃(総勢2万余とも)することとなり、5月6日の深夜(午前1時頃)、長宗我部勢約5千の軍勢を率いて進発。そして未明には八尾方面に到着した。

そこに同じく八尾方面に進出して来た徳川方の藤堂高虎隊と会敵、(出会い頭に)そのまま戦闘に突入した。辺り一帯は湿地帯だった為、両軍は馬1頭がやっと通れる狭い道路上で激闘を繰り広げたという。

尚、この時対戦した藤堂高虎隊は長宗我部家の旧臣(前述の桑名吉成など)が多く召し抱えられていた因縁のある大名家であり、この戦闘は盛親にとって負けられない戦いだったのだ・・・。

さて、夏の陣、屈指の激戦であったこの八尾・若江の戦いの初戦において、当初、長宗我部の先鋒隊は藤堂隊に発見されて鉄砲を撃ち掛けられ、先鋒隊を率いる吉田重親は本隊に伝令を発した後に藤堂家信と闘い討死。この後、先鋒隊は藤堂隊の攻撃をまともに受け全滅した。そして藤堂隊は、敵の先鋒を壊滅させた勢いのまま長宗我部本隊に迫った。

しかし盛親は伏兵を設けて藤堂高虎隊を迎撃、川の堤防に隠れた一部の兵が藤堂隊の諸兵を十分に引き付けたところで槍にて一斉突撃を敢行。藤堂隊は予期せぬ盛親隊の伏兵の出現と長宗我部本隊の猛攻を受けて高虎の甥の藤堂高刑や家老衆6人などが討死をしている。この時の長宗我部勢の活躍は凄まじく、藤堂高虎自身も逃げ回らざるを得ない潰走状態となり、いよいよ盛親は藤堂隊を壊滅寸前にまで追い込むが・・・。

そこに徳川方の井伊直孝隊が藤堂隊の援軍に駆けつけた為に形勢は逆転。更に盛親と共に出撃し並行して若江へ進んでいた木村重成が戦死してその部隊も瓦解してしまった為、長宗我部隊は敵中で孤立するのを恐れて大阪城への退却を余儀なくされたのだった。

ちなみに、増田長盛が盛親の烏帽子親を務めた関係から、長盛次男の盛次が長宗我部隊に属して八尾に進軍し藤堂高虎隊と交戦している。長宗我部勢の撤退時には盛次が殿軍を務めたが、藤堂隊の追撃は激しく、藤堂家の臣、磯野行尚(磯野員昌の孫)に討ち取られたという。

 

その後、盛親はなんとか無事に大坂城に帰還するが、八尾での先鋒隊の壊滅並びに退却戦での損耗は長宗我部隊に少なからぬ痛手を与え、翌日の天王寺・岡山での最終決戦には出陣せずに大坂城京橋口の守備を命じられるが、大阪夏の陣の前半戦で一番の奮戦を見せたのは盛親率いる長宗我部勢だとする見方もあるのだ。

しかし、決戦の敗北が決定的となり豊臣軍は惨敗、大阪城が落城に瀕すると、盛親は再起を図って逃亡することになる。

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