《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -10》 長宗我部盛親 〈25JKI28〉

だが天は盛親を顧みず、5月11日に京都八幡(京都府八幡市)近くの葭原・男山に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門らに見つかり捕らえられる。

その後、盛親は見せしめの為に二条城門外の柵に縛りつけられた。そして5月15日に六条河原で6人の子女らと共に斬首されて三条河原に晒された。享年は41歳とされ、その最期は死に対して臆することなく立派な態度で刑に臨んだという。また、これにより長宗我部氏嫡流は途絶した。尚、墓所は京都市五条寺町の蓮光寺にある。領安院殿源翁宗本大居士と諡名された(別の諡名として蓮国一栄大禅定門あり)。

またこの時、何とかして生き残り再起を図ることに執着した盛親は出家を理由に命乞いをするが、盛親の真意を察知した徳川家康はこれを許さず、死罪に決したという。

処刑の為に白州に引き出された際に、「徳川方第一の戦功は八尾で大坂方を破った井伊直孝、大坂方敗戦の因は八尾で敗れた長宗我部盛親」と答えたとも伝わる。

更に、自刃もせずに捕らわれたことを徳川方の将兵が嘲ると、「命は惜しむものだ。命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」と云い放った。

同様の逸話としては、秀忠の側近(蜂須賀家の家臣との説あり)が「何故自害しなかったのか」と尋ねると、「一方の大将たる身が、葉武者のごとく軽々と討死すべきではない。私が捕らえられておめおめと生き恥をさらしているのは、折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりだからである」と答えたとされる(『常山紀談』)。

二条城の門前に晒された際に、折敷に盛った強飯と赤鰯を足軽からあてがわれ、「古来より名将の搦め捕らわれるためしは多く、少しも恥とは思わぬ。だがこのような卑しき食物を差し置く礼儀がどこにあるか。早く首を刎ねるがよい」と怒鳴ったとされる(『常山紀談』)。これを聞いた井伊直孝は足軽の行動を「無法な振る舞い」として盛親を座敷に上げ、台所方に用意させた大名料理で饗応したが、盛親はこの心遣いに大いに感激したという。

尚、捕縛される前に盛親は、潜伏場所の近辺の街道筋で、この街道を通り大阪から引き上げる途中の家康の命を火縄銃で狙っていたという伝説もある。

 

更に余談だが、盛親が捕えられた際に付き従っていた家来のひとりで奇跡的に助命された(小判で餅を買って盛親捕縛の切っ掛けを作ってしまった)中内(なかのうち)惣右衛門は、盛親から託された馬の鞍を携えて土佐に帰国したが、その後に阿波の蜂須賀家に仕官(仕えたのは子孫との説あり)したらしい。

やがて「中内の家には不思議な鞍がある」という風聞が広まり出した。それは「中内家の者や長宗我部の旧臣たちが使用する分には何の差し障りもないが、それ以外の者が用いると必ず落馬する」というものだった。

結局、蜂須賀家の家中は誰一人としてこの鞍をつけた馬に乗る事が出来ずに落馬し、長宗我部家の旧臣に繋がる者は乗りこなせたとこから、この鞍を「長宗我部鞍」と呼んで長宗我部家の旧臣達は敬い、偲んだとされている。

 

盛親には一国の国主としての覚悟と実力が不足していたと評されることが多いが、「不運」という言葉がこれほど似つかわしい大名もいない。

盛親の不運の始まりは、父である元親の進めた強引な家督相続にあった。まだ少年であった盛親が、自ら後継者となることを強く望んだかは疑問があるのだ。だがこの事によって、家中に多くの不和の火種を残すことになる。

関ヶ原の合戦でも、東軍に味方する予定であった盛親。大きな目論見違いにより、その後の運命は180度反転して、不幸のどん底に落ちるのであった。やはり、運が無い。

関ヶ原の合戦後の処分についても、領土の大部分が安堵された島津氏などとは随分と隔たった幕切れであり、危機管理についての未熟さや交渉力が稚拙なことに加えて、あくまで運の無さが際立つのが盛親である。

しかし、とんでもなく不運な人生を送ったにもかかわらず、最期まで再起の夢を捨てない意地をみせたのが盛親なのだ。見事な討死を果たして喝采を浴びた真田信繁と比べて、あくまでも長宗我部家の復興への執念をみせる盛親は対照的ではあるが、きっとそんな生き様もあったと思わせる人物ではある・・・。

-終-

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