【大河ドラマ】 女城主・井伊直虎とは? 主役の柴咲コウさん共々調べてみました!! 〈25JKI39〉

さて、柴咲さん演じる大河ドラマの主人公、井伊直虎は、戦国時代に遠江国の井伊谷(現在の静岡県浜松市付近)の女領主として内政に手腕を振るったとされる人物。「女地頭」と呼ばれ、生涯独身を貫きました。

 

この直虎の祖先、井伊氏は、藤原北家の後裔(系譜上では藤原良門の息子である藤原利世の子孫とされる)を称すも、継体天皇を祖とする三国真人の流れを引く氏族であるとする説もあります。『寛政重修諸家譜』には利世の子孫、藤原共資が遠江国敷智郡村櫛に住し、その子の共保が井伊谷に移り住んで 井伊氏を称したとあります。

また、『保元物語』によると後三年の役の際に源義朝に従い出陣したとされている「井八郎」は遠江国の武士で、彼が井伊氏の祖ではないかと考える研究家も多いようです。更に『藩翰譜』には、「井伊介は武智麿の後遠江権守為憲が末葉にて、工藤・伊藤などと同じ流にて、 南家の藤氏なり」とあります。

さてこうした説の真偽は不明ですが、遠江の井伊氏が、井伊谷を本拠とする武家として既に平安時代には浜名湖の東方地域を勢力範囲としていたことは間違いありません。また、鎌倉時代から南北朝時代には、「井伊介」または 「井介」と呼ばれており、遠江国における有力在地領主でした。※「井伊介」は八介のひとつ。

 

南北朝の動乱期には、井伊氏は南朝方として北朝方の今川氏などの勢力と対立していましたが、それ以外の時期は今川家に従属して活動していた期間が長いようです。例えば応安三年(1370)に九州探題に任じられた今川了俊は、遠江の武士を数多く引き連れて任地へ赴きましたが、その中にも井伊氏の武将たちの名が含まれています。

しかしその後、明応3年(1494年)頃に、今川氏親が遠江地方へ侵攻(実際に兵を率いたのは北条早雲)すると、当時、井伊氏は遠江国の守護であった斯波義寛大河内氏(吉良氏の家臣であった大河内貞綱など)と同盟を結びこの今川氏の動きに対抗します。この争いは明応、文亀、永正と断続的に続きますが、やがて井伊直氏の子、井伊直平が永正10年(1513年)、守備していた遠江国の三岳城(御獄城)の陥落によって今川氏親に降伏、以後は再び今川氏に仕えました。※三岳城に籠城していたのは直平などの井伊谷井伊氏ではなく、別流の渋川系井伊氏であるとの説もあります。

直平の子である井伊直宗は、上記の通り父の代から今川氏の家臣となり氏親の子の今川義元に仕えていました。父から家督を譲られて当主となりましたが、天文11年(1542年)に主君の義元に従い三河国田原城攻めに参加して、討死してしまいます。

そこで家督は子の直盛が継ぎますが男子が無かったため、直宗の弟の直満(直盛の叔父)が自身の子の井伊直親(直盛の従弟)を養嗣子にすると約束をしますが、天文13年(1544年)12月23日に今川家の与力、小野道高(政直)の讒言により、直満が弟の直義と共に今川家への謀反の疑いをかけられて誅殺され、直親も追手から逃れて信濃国に脱出したとされています。

この辺の事情としては、井伊直盛の子供で「次郎法師(次郎と法師は井伊氏の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)」と名付けられた娘(後の直虎)が、直親を婿養子に迎える予定であったとの説が有力です。

以後、井伊家では直親の命を守る為に、その生死も所在も隠していましたが、結局、許嫁が逃走してしまった次郎法師は出家することになります。やがて直親は、後の弘治元年(1555年年)に今川家の家臣に復帰しますが、信濃国にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていた為、次郎法師との婚儀は成立しませんでした。

 

やがて今川義元が、今川家の当主として永禄3年(1560年)に尾張攻略に向けて出陣する際に、その先鋒には井伊直盛の姿がありました。しかし義元は織田信長に討ち取られ、今川軍の先手の大将のひとりであった直盛も多くの井伊家臣団と共にあえなく討死してしまうのです。

男子の無い直盛の戦死後、井伊家の後継当主には直親が継ぐことになりました。ところが家督を継いだ直親も、またもや讒言によって今川氏への叛意を疑われ、永禄5年12月14日(1563年1月8日)に今川氏の重臣である朝比奈泰朝により殺害されます。しかもその直親が殺された後、彼の嫡男の虎松(後の直政)は当時わずか二歳の幼児でしたが、今川氏真(義元の子)はこの虎松も殺害しようとしたのです。

当時の遠江国の状態は「遠州錯乱」と呼ばれ、今川家への、配下の国人領主たちの裏切り・反乱が相次いでいました。この混乱状態の中で直親が殺されたのは、因縁の小野道高の子、小野道好の讒言により、松平元康との内通を主君の氏真に疑われた為とされており、また、殺された直親の享年は28歳とされています。

この事件で、次郎法師(直虎)らにも災いが及びかけたところを母の友椿尼の兄で、叔父にあたる新野親矩の助けで窮地を脱しましたが、翌永禄6年(1563年)、(いまだ存命だった?)曽祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏犬居城攻めに参加している時に急死してしまい、永禄7年(1564年)には井伊氏は今川家に従った引間城攻めで新野親矩や重臣の中野直由らが相次いで討死し、家中を支えていた有力武将の多くを失います。そしてその頃、龍潭寺の住職であった南渓瑞聞(直盛の叔父、直親の伯父)により、まだ幼年であった直親の子、虎松は鳳来寺に匿われていました。

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