【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (中) 〈3JKI07〉

さて戦線布告はしたものの、英仏両国は実際にはポーランドに対して具体的な援助をしなかった。独軍のほとんどの戦力(装甲部隊の85%)はポーランド攻撃に向けられていたのに、上記の通りフランスはドイツを攻撃せず、独仏国境は静かなままだったのだ。

またポーランド軍に対して独軍の犠牲は少なかった(損失は戦車約300両・その他の車両約1,000両、航空機は最大で141機、戦闘での死者数は16,343人で負傷者27,280人とされている)が、しかしその一方でポーランド侵攻作戦に参加した戦車などの独軍装甲戦闘車両の30%以上が失われたのも事実で、これが理由でドイツは西欧諸国を即時攻撃する計画を放棄せざるを得なかったともされる。

しかしこの様な停滞した戦争状態は、ある意味では英仏側にとっては有利であったが、かたやドイツ側には連合国の戦略的な経済封鎖を打ち破る必要が増大し、思い切った実力行使を実行して現状を打破することが望まれた。つまりは国の存亡をかけた選択肢は欧州西方方面へ攻勢をかけて、一旦、英仏両国を叩き、国際情勢をドイツにとって有利に導く事しかなくなったのであり、これは以降の極東・太平洋戦域での日本が置かれた状況と極めて似ていたと云えよう。

※西方戦役の当初にA軍集団が「連続する降雨が予想されるので、攻勢の開始は差し当たり不可能」と報告すると、自分の希望に沿わない情報を全く信用しないヒトラーは、実際の地形の状態を見極めさせる為に筆頭副官のルドルフ・シュムント(Rudolf Schmundt)大佐(最終階級は大将)を現地に派遣した。そこでマンシュタインは、シュムントとかつて同じ連隊の一員だったA軍集団参謀のトレスコウ中佐に引率させて、一日中、ほとんど通行不能な道路や水浸しの草原を視察させて彼を納得させたという。

また西方戦役開始の当初、ポーランド攻略戦の作戦までは用意されていたものの、未だ西側諸国との現実的な戦いは考慮しておらず、ヒトラー総統も陸軍総司令部も旧来の計画を刷新する様な新たな総合的戦争計画は準備していなかったのだった。

即ち1939年の段階ではドイツの戦争準備は充分に整っておらず、ヒトラーはフランスなどの西側諸国を攻撃しようとはしていなかった。ヒトラーがイギリスとフランスとの平和交渉がもはや無益だと判断するまでには、結局、数ヵ月もの時間がかかったのだ。

この頃のマンシュタインが、取り敢えず陸軍総司令部が用意していた作戦案が1914年のシェリーフェン・プランの単なる焼き直しだと感じて独自に新たな作戦計画を策定することにした理由を、「我々の世代がこのような古い作戦から一歩も抜け出せないのを非常に悔しく感じた。一体どうして、書架からすでに使い古した作戦計画書、つまり彼我共に散々練りつくし、そして敵がその再現に備えているようなものを引っ張り出し、蒸し返さねばならぬのだろう」と自叙伝で述べている。

こうしてマンシュタインは、部下のギュンター・ブルーメントリット(Günther Blumentritt)参謀(以後、各有力部隊の参謀長を歴任、最終階級は大将)とヘニング・フォン・トレスコウ(Henning  von Tresckow)参謀(最終階級は少将、ヒトラー暗殺計画の首謀者の一人として有名だが逮捕前に自殺)と共に西方侵攻作戦を立案することになる

ハインツ・グデーリアン上級大将

この作戦の主旨は、西方への電撃戦の重点を北部方面から中央地区に移し、精鋭装甲部隊で戦車などの通過が困難と考えられていたアルデンヌ森林地帯を抜けて敵側の意表を突き、速やかにミューズ川対岸の橋頭堡を確保して英仏海峡の海岸地帯に至るまでの進撃を実施、ベルギーとフランドル(フランダース)地方に展開する英仏連合軍とフランス本土地域を分断することを目的とした極めて野心的な内容であり、彼らはこの計画を『大鎌作戦/鎌計画(Operation Sichelschnit)』と名付けた。

マンシュタインはこの計画で、攻撃の力点を当初の北部地区担当のB軍集団から強力な諸兵科連合装甲部隊を有する中央部のA軍集団に変更し、更に装甲兵力を分散させない点に最大限留意して計画を策定した。そしてかねがね装甲兵力は1点集中で奇襲に活用しなければならないと主張していた“ドイツ戦車部隊の生みの親”ことハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian)装甲兵大将(後に上級大将)に事前の打診を行い幾度も相談をした結果、彼からの積極的な賛同を得て計画の実効性を検証していた。

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