【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (中) 〈3JKI07〉

その後、西方大攻勢の準備が具体的に開始されると、マンシュタインは保守的で成功可能性の低い、旧来のベルギー北部を進撃する攻撃計画の代替として、上記の独自案を数回にわたり陸軍総司令部に進言した。

しかし守旧派が多数を占める陸軍総司令部は、この提案を採用するつもりはなかった。しかもマンシュタインの革新的な作戦計画を脅威と感じた彼らは、この作戦案を握り潰してマンシュタインを第38(歩兵)軍団の司令官(1940年2月1日任命)に左遷してしまうのだった。

※当初の西方攻勢の計画である『黄の場合(Fall Gelb)』作戦命令第1次計画(Aufmarschanweisung N°1, Fall Gelb)によれば、ドイツ軍は第1次世界大戦時のシュリーフェン・プランの第1段階と同じく、英仏連合軍をベルギー中部からフランス北部のソンム川へと押し戻す予定であったが、1940年1月10日にメヘレン事件Mechelen Incident)が発生して、同作戦関連文書を含む重要機密書類を運んでいたドイツ軍機がベルギー領に墜落したことで、機密漏洩を心配したドイツ軍首脳部は作戦の再考を余儀なくされていたことも事実である。

だが、マンシュタインに理解の有る軍首脳部内の友人たちの計らいでこの計画の概要がヒトラー総統の耳に入り、旧来型の作戦に満足していなかった彼の興味・関心を惹いたことから、同計画を基本として新たに策定された西方攻撃の作戦計画『黄の場合』が正式に採用されたのだった。異説には、A軍集団参謀長を更迭されたマンシュタインが第38軍団長に補任された直後の1940年2月、新任の軍団長としてヒトラーとの面会を果たした際にこの独自案を自ら総統にプレゼンしたとの説もある。

※この作戦名を最初に「マンシュタイン・プラン」と呼んだのは、イギリスの軍事評論家で軍事史研究者のサー・バジル・ヘンリー・リデル=ハート(Sir Basil Henry Liddell-Hart)だとされている。

森林地帯を突破する独軍軽戦車部隊

マンシュタイン本人の自伝によると、1940年5月10日に西方向けの電撃戦が開始されたことを、彼は休暇でドライブ中にラジオで聞いたとされている。しかし直後には彼の第38(歩兵)軍団に対して、一旦、B軍集団の指揮下に入る様にとの下令があり、その後、改めてA軍集団のギュンター・フォン・クルーゲ(Günther von Kluge)砲兵大将(最終階級は元帥)の第4軍に所属する形で攻勢の一翼を担うことになった。

※第4軍を指揮したのはクルーゲであったが、そこにはヘルマン・ホト(Hermann Hoth)砲兵大将(最終階級は上級大将)率いるの第15装甲軍団があり、この部隊にはエルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel)少将(後に元帥)の指揮する第7装甲師団も含まれていた。

※この西方攻勢では、ルントシュテット率いるA軍集団の中のパウル・ルートヴィヒ・エヴァルト・フォン・クライスト(Paul Ludwig Ewald von Kleist)騎兵大将(最終階級は元帥)が率いるクライスト装甲集団が作戦全体の鍵を握っていた。右翼(北方)のB軍集団が連合軍を挑発して誘い込み、中央のA軍集団が“槍”となって敵軍の側面・脇腹を突き刺す、というこの作戦の主旨においては、13万人の兵員と4万台に上る車両を従えたクライスト装甲集団はまさしくその“槍の穂先”に当たり、そして更にこの装甲集団の先頭を切るのはグデーリアン指揮の第19装甲軍団だった…。

※当時のグデーリアン指揮下の第19装甲軍団の先鋒は精鋭中の精鋭である第1装甲師団が務めたが、この師団の当時の編成表を見ると、師団長のフリードリヒ・キルヒナー(Friedrich Kirchner)少将(最終階級は装甲兵大将)以下、作戦主任参謀はヴァルター・ヴェンク(Walther Wenck)少佐(最終階級は装甲兵大将、後述)、第1狙撃兵連隊長はヘルマン・バルク(Hermann Balck)中佐(最終階級は装甲兵大将)が務め、第2装甲連隊第1大隊長にはあのシュトラハヴィッツ(Strachwitz)伯爵・予備少佐(最終階級は予備中将)といった、後々の独軍装甲部隊の大立者たちが揃っている。

※第19装甲軍団はセダンを突破し、ムーズ川渡河では精鋭のグロースドイッチュランド歩兵連隊と突撃工兵大隊が大活躍する。グデーリアンの装甲部隊は橋頭堡から一気にドーバー沿岸に向けての進撃を目論むが、後続の歩兵部隊が追いつくまで待機との命令が出る。しかし、この好機を逃す手はないと考えたグデーリアンは、待機命令を無視して進撃を再開、怒涛の攻勢を始めた。だが当然乍らその左翼を進む味方部隊が第19装甲軍団に追いつけずに左側面の防御に関する不安が増大、遂にクライストによる停止命令が発令されたが、これに反発したグデーリアンが解任を申し出た。ここで第12軍の司令官リストとルントシュテットの仲裁によって「威力偵察」なら認めるとの妥協案が出されるが、結局は敵の反撃に怯えたヒトラーによって前進停止命令が出された。こうしてドーバー海峡沿岸部・ダンケルクを目前とした「アラスの停止命令」(5月24日)が下令され、英海外派遣軍を中心とした連合軍35万の兵員を逃すことになった。

※上記の進撃中止の命令の切っ掛けとなった“アラスの戦い”で、ロンメル少将が8.8 cm FlaK 18(88mm高射砲“アハト・アハト”)を対戦車砲として活用した話は有名である。

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