この攻勢作戦は独軍首脳部の予想をはるかに超えた成功を収めて、それに伴い作戦の原案を起草したマンシュタインの評価も大いに高まった。同作戦では彼も第38(歩兵)軍団を率いて17日間で500kmの進軍を果たしてロワール川まで到達し、騎士鉄十字章を受章したマンシュタインは6月1日には歩兵大将に昇格する
6月14日にはドイツ軍はパリを無血占拠し、同月16日、フランスのポール・レノー(Paul Reynaud)内閣は総辞職をして後継者(副首相)のフィリップ・ペタン(Philippe Pétain)元帥はドイツへの降伏を決断した。6月22日、コンピエーニュの森において休戦条約が調印され(独仏休戦協定)、ここにフランス(当時は第三共和政)は崩壊し、ペタンを国家主席とするヴィシー政権が成立した。
そしてヒトラーは、連合軍を破りフランスを下したことでドイツ軍の将軍たちの中から1ダースもの元帥昇格を認めた。だがこの様子にマンシュタインは、一部(陸軍総司令官/ブラウヒッチュとA・Bの軍集団司令官2名/ルントシュテットとボック)の昇進は妥当だとしながらも、その他の多くの者に関しては大盤振る舞いが過ぎるとし、特に明確に名指しは避けたがカイテルと空軍のエアハルト・ミルヒ(Erhard Milch)については不適格だとした。更にゲーリングの国家元帥への就任については、陸軍を蔑ろにする行為であり相対的に陸軍総司令官の地位を低下させたと批判したのだった。
更にマンシュタインは、その後の『英本土上陸作戦(Unternehmen Seelöwe)』(アシカ/ゼーレーヴェ作戦)の中止に関しても、結局のところヒトラー総統は英国との最終戦争は避けたいと考えていたのであろうとして、「大英帝国が崩壊した場合、その遺産相続人となるのはドイツではなく、合衆国、日本、もしくはソ連であることを(ヒトラーは)承知していたのである」という見解を後に語った。
その後、マンシュタインは1941年2月15日になり晴れて予てより希望していた装甲部隊である、新編の第56装甲軍団の長に任命されるのだった。
1941年6月22日に発動された対ソ連侵攻の『バルバロッサ作戦』では、第56装甲軍団はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フランツ・リッター・フォン・レープ(Wilhelm Josef Franz Ritter von Leeb)元帥麾下の北方軍集団の第4装甲集団(指揮官はエーリヒ・ヘプナー(Erich Hoepner)上級大将)に属して快進撃を見せ、作戦開始からわずか4日目には独ソ国境とレニングラードのほぼ中間地点に位置する重要な渡河地点の町・ドヴィンスク(デュナブルク)を占拠し、西ドヴィナ川に架かる装甲部隊が通過可能な橋梁を無傷で確保した。
だがその後の装甲師団の前進は、参謀本部がソ連軍による側面攻撃を心配した為に中断させられた。マンシュタインの部隊には前進停止の命令が伝えられ、ドウィンスク橋頭堡を確実に確保する為に彼の傘下の装甲師団は6日間にわたり、前進が出来なかった。
※第56装甲軍団の編成には装甲師団が一つしかなく、エーリッヒ・ブランデンベルガー(Erich Brandenberger)少将(最終階級は装甲兵大将)の第8装甲師団に第3自動車化歩兵師団、そして第290歩兵師団というものであった。だが、第8装甲師団は第4装甲集団の先鋒としてドヴィンスク、ルガ、イリメニ湖畔及びノヴゴロドでソ連軍と激闘を繰り広げては、レニングラードへ向けた進攻の最前線で活躍する。
※第4装甲集団には、ゲオルク=ハンス・ラインハルト(Georg-Hans Reinhardt)装甲兵大将(最終階級は上級大将)の第41装甲軍団も所属していた。そしてこの軍団は第1と第6装甲師団、第36自動車化歩兵師団、第269歩兵師団を擁していた。
※ソ連侵攻の当初、独軍装甲軍団に附属されていた自動車化歩兵部隊が保有していた対戦車砲(3.7cm PaK 36)では、ソ連軍のT-34中戦車やKV-1重戦車には到底敵わなかった。第16装甲師団の狙撃兵旅団のPaK 36が放った20発以上の命中弾を、T-34は軽々と跳ね返したとの記録が残っている。こうして『バルバロッサ作戦』の初期の段階で遭遇したT-26軽戦車などは別として、独軍のⅡ号戦車や短砲身のⅢ号戦車、そしてPaK 36対戦車砲等では至近距離であっても、またどの方向から何発の命中弾を与えても、ソ連の新型戦車にはほとんど効果がないことが判明した。対戦車砲ともども、電撃戦で名を馳せたとは云え、当時のドイツ軍戦車の火砲は極めて貧弱だったのである。
※『バルバロッサ作戦』では、侵攻開始以来6月30日までの間にドイツ軍兵士の8,886人が死亡したとされている。
その後、目標であるレニングラードへと進撃を再開した第56装甲軍団であったが、1941年9月12日にオイゲン・フォン・ショーベルト(Eugen von Schobert)上級大将が事故死した後を受けて、マンシュタインは戦線南部の南方軍集団(1942年6月にA・B軍集団に改組)に属する第11軍司令官に任命(9月13日付)され、栄転となる。
そこで彼はルーマニア軍の軍団を含む第11軍を指揮して、クリミア半島のセヴァストポリ要塞の攻略を指揮することになる。
※第11軍司令官ショーベルトは、搭乗していたシュトルヒ(Fi 156)軽軍用機が機体故障で不時着して地雷原に突っ込んで戦死を遂げ、マンシュタインが軍司令部に着任した時には、葬儀の最中だったとされる。
※第11軍はルーマニア第3軍・第4軍との連合部隊であり、もともとルーマニア軍人のイオン・ヴィクトル・アントネスク(Ion Victor Antonescu)元帥の指揮下にあった部隊だった。そしてそのアントネスクも南方軍集団司令官ルントシュテット元帥から作戦上の指揮を受けるといった複雑な指揮命令系統に属していたが、アントネスクは第4軍の指揮に専念していたこともあって、マンシュタインは第11軍とルーマニア第3軍を併せて統率することになった。また因みに、後の発言からマンシュタインがアントネスク元帥の軍事指導力を高く評価していたことが窺える。
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