【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (中) 〈3JKI07〉

こうして、『クリミア戦』の火蓋が切って落とされたのだったが、マンシュタインに委ねられたこの第11軍は有名な要塞セヴァストポリ(Sevastopol)を有するクリミア地方を攻略するのが目的であり、その攻撃は9月24日には開始されて、11月16日頃迄には要塞を除く大部分のクリミア半島が独軍の支配下に入ったが、依然としてセヴァストポリの巨大要塞は持ち堪えていた。

※第11軍管区では、当初は制空権がソ連側にあったのだが、そこに支援に来たのがヴェルナー・メルダースWerner Mölders)空軍中佐の第51戦闘航空団(JG.51)であり、瞬く間に彼の戦闘機隊がクリミアの戦場上空からソ連機を追い払うことに成功する。メルダースは7月15日には101機撃墜と史上初の100機撃墜を果たし、独軍初の「柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章」を受章、大佐に昇進して戦闘機隊総監に就任するが、11月22日に墜落、事故死した。

※SS第1装甲師団(当時はまだ旅団規模、また実態は「自動車化歩兵師団」であったとする史料も多い)“ライプシュタンダルテ  アドルフ・ヒトラー(LAH)”は、短期間ではあったが第11軍に所属し、9月17日に発動されたクリミア半島制圧作戦ではターテルディッチ近郊のソ連軍防御陣地強襲の為、ペレコープ地峡手前のペレコープの町において激戦に巻き込まれている。しかしその後、LAHはクライストの第1装甲集団に移管されてしまい、一時期、第11軍は有力な装甲部隊を持たずに多数の戦車を保有するソ連軍のに立ち向うことになった

ケルチ戦線の独軍歩兵部隊

12月17日、この難攻不落の要塞に対する第1次攻撃が開始されたが、同月26日にはソ連軍の反攻が始まりマンシュタインはこの攻勢に対処する為に、一旦、要塞の攻略を中止することになる。

26日にクリスマス攻勢を発動したソ連軍(第44軍・第51軍など)は、黒海のケルチ半島西部に逆上陸を敢行して橋頭堡を築いたのだった。翌1942年1月初め、独軍の第42軍団長のグラーフ・シュポネック(Hans Emil Otto Graf von Sponeck)中将は、ケルチ半島西部(ケルチやフョードシア)に上陸したソ連軍に後方を遮断されてはわずかな部隊(1個師団程度)では半島を守り通すことはできないと判断して、半島の東部側から西部地区へと独断で移動(事実上の撤退)を開始した。

マンシュタインは援軍を派遣する時間を稼ごうと、シュポネックに撤退中止の命令を打電したが、彼からの返事はなく、第42軍団は勝手に撤退してしまう。そこでマンシュタインは、直ちにシュポネックを罷免、そして軍事法廷へと送られたシュポネックは、裁判長のゲーリングによって死刑を宣告された。

この時、軍事裁判の日程も知らされない状態で、いきなりの死刑判決に驚いたマンシュタインであったが、OKW総長のカイテルによってシュポネックとの面会さえも拒否されてしまった。結局はヒトラーによってシュポネックは禁固7年の刑にまで減刑されたが、後の1944年7月20日に発生した『ヒトラー暗殺未遂事件』に連座したとしてハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)により処刑・銃殺される。

さて、ケルチを奪回したソ連軍は結果としてセヴァストポリ要塞への援軍となった。当時、ソ連軍は同地に3個軍(歩兵17個師団・歩兵2個旅団、騎兵2個師団と戦車4個師団)と優勢な部隊を投入、また黒海艦隊もケルチ半島の防備を固めていた。このために独軍は側面攻撃を恐れて、ボルガ川・カフカス方面への進撃に踏み切れなかった。そこで5月8日、この地区のソ連軍部隊の排除を目指したマンシュタインはケルチ北部で陽動作戦を発動、南部には歩兵5個師団と装甲1個師団を展開した。これをヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(Wolfram von Richthofen)航空兵大将(後に空軍元帥)の第8航空軍団と重砲部隊が援護して、黒海上には歩兵を乗せた舟艇が準備された。

※ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(Wolfram von Richthofen)は、第1次世界大戦では従兄弟である有名な撃墜王、『レッド・バロン(赤い男爵)/赤い悪魔』ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェン(Manfred von Richthofen)男爵の指揮する第11戦闘機中隊に所属して共に戦ったこともある。

クリミア戦線 前線司令部でのマンシュタイン

ちなみにこの頃、第11軍から有能な参謀長であったオットー・ヴェーラー(Otto Wöhler)中将(最終階級は歩兵大将)が去り、5月12日付けでフリードリヒ・シュルツ(Friedrich Schulz)大佐(7月1日付けで少将、最終階級は歩兵大将)が着任した。これ以降、シュルツはマンシュタインの忠実な部下としてドン軍集団でも参謀長として従うのだった。

5月16日には独軍はケルチ半島を奪還、わずか9日間でソ連軍は第44軍・第47軍、そして第51軍の各部隊がケルチ半島から追い落とされた。独軍はソ連軍の兵士17万人を捕虜とし、火砲1,133門に戦車258両を鹵獲・破壊するという大戦果をあげたのだった。

しかし未だにセヴァストポリ要塞では、有力なソ連軍が立て篭もって抵抗を続けていた。要塞のソ連軍守備隊は兵員10万人、火砲600門を有し、コンクリートで固めた防御施設・トーチカを多数配置していた 。またこのセヴァストポリ要塞は、クリミア地区の独軍を拘束する為の捨石とも言えたが、しかしそれ故にギリギリまで抵抗することをソ連軍最高司令部からは厳命されていたのだった…。

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