【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (中) 〈3JKI07〉

6月以降、7月3日までの間にマンシュタインは、ソ連軍との直接対決による独軍側の被害を極力抑えながら、砲爆撃を多用して組織的にセヴァストポリ要塞のソ連軍の各抵抗拠点を潰していったのだった。

クルップ 80cm列車砲

この様な彼の方針の下、独軍は6月3日より引き続きクリミアの要衝セヴァストポリ要塞の各防御陣地を、クルップ16口径 42cm『ガンマ(Gamma)』臼砲(重量14t・射程14.2km)やモーゼル 60cm『カール(Karl)』臼砲(重量124t・射程4.3km)、そしてクルップ 80cm『ドーラ (Dora)』列車砲(重量1,350t・射程38~48km)に加えて多数のロケット弾を含む1,300門もの火砲で、要塞の正面陣地帯・幅25kmにわたり5日間もの間、昼夜を問わず砲撃を加えた。

またこの時、リヒトフォーヘンの独空軍は要塞爆撃に連日延べ1,000~2,000機を投入(ヒトラーの特別な指令で当初の予定より3日間多く作戦に従事)したとされる。またマンシュタインも後に、この第8航空軍団の活躍を大きく評価している。

※ドイツ陸軍総司令部(OKH)はセバストポリ要塞攻撃の為に、その保有するありったけの重攻撃兵器と資材を準備し、その火力は重砲兵および超重砲兵 56個中隊と軽砲兵が 41個中隊、そして突撃砲兵 2個大隊などを動員し、第2次世界大戦における独軍最大規模の攻城部隊となった。

※マンシュタインは、列車砲『ドーラ』に関して「砲兵技術上の傑作」と表現している。だが、この怪物の援護の為に高射砲 2個大隊を配備しなければならず、更に防衛・整備等の支援業務も含めて4,000人以上の兵員と技術者が必要であることを考慮すると、決して効率的とは言えなかったとしている。

陥落したセヴァストポリ要塞を視察するマンシュタイン

当初は頑強に抵抗していたソ連軍守備隊も補給物資の不足も相まって各所で崩れ始め、独軍側は6月13日に第22歩兵(空輸)師団所属のディートリヒ・フォン・コルティッツ(Dietrich von Choltitz)大佐(最終階級は歩兵大将、パリ解放時の大パリ司令官)率いる第16歩兵連隊が“スターリン堡塁”の奪取に成功して以降、“チェーカー”・“GPU”・“シベリア”・“ヴォルガ”と次々に堡塁を攻略していき、やがて装甲砲台“マキシム・ゴーリキーⅠ”を陥落せしめ、こうして各地の防御拠点に立て籠もっていたソ連軍も、最後には皆、制圧されていった。

その後も要塞のソ連軍守備隊に対して独軍は猛砲撃と空襲を継続し、7月3日になって最後の“マキシム・ゴーリキーⅡ”堡塁を占拠して遂にセヴァストポリ要塞の攻略を完了、こうしてクリミア戦は終了する。

この成果を大いに評価したヒトラーにより、既に同年3月7日付けで上級大将に昇格していたマンシュタインは通常の軍人では最高位の階級である元帥へと昇進(1942年7月1日付)したのだった。

 

次回は最終回(後編)として、ドン軍集団の司令官としてスターリングラードの友軍(第6軍)救出を目指すところから、それ以降、敗色濃厚な東部戦線を支えて大活躍するマンシュタインが、ヒトラーから南方軍集団司令官を解任されて戦線から退くところまでを描く…。そして最後に、戦後の彼に関する戦犯裁判の様子に触れながらこの名将の生涯に関わる記事を終える予定である。

-終-

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