【国鉄三大怪事件 -1】下山事件の謎 第2回 〈1031JKI51〉

遺体発見】しかし失踪から約15時間の後、翌7月6日の午前0時30分過ぎに足立区綾瀬の国鉄常磐線の北千住と綾瀬駅の間で、下山総裁は轢死体となって発見されたのだった。上野発松戸行きの最終電車運転手の情報を元に、現場に駆けつけた綾瀬駅員によって東武線ガード下付近で死体の存在が確認された(東京都足立区五反野南町938番地先線路上)。上野保線区の北千住区長や副区長も現場に急行して下山総裁の名刺や優待乗車券を発見するが、午前2時15分頃に五反野南町の駐在所に状況を報告した時点では、未だこの死体が下山総裁本人のものであるかは半信半疑であった。

その後、駐在の巡査が実況検分中に金歯を発見し社会的地位の高い人物と判断、午前3時過ぎに現場に到着した西新井署の捜査官らとともに下山本人の可能性が高いと結論し、午前3時半~4時頃警視庁にその旨を報告した。

午前6時頃には、深夜から降り続く雨の中で警視庁や東京地検から50名以上を動員して行われた現場検証では、鑑識課員が現場を写真に収めるとともに、約85メートルに渡って線路上に散乱していた死体や遺留品の位置を詳細に記録した。そして轢断列車の進行方向とは逆の方向に、轢断の現場から200m以上に渡って線路上に血痕が見つかり、また付近のロープ小屋からも同様に血の跡が発見された。

※折からの大雨で、鉄路上の死体はまるで溺死体の様であったと云う。またロープ小屋も含め、血痕に関しては後に論争の的となる。

D51-651号機

この遺体を轢断したとされるのは松戸行きの最終電車の6分前に同現場を通過していた869貨物列車であると早々に判明したが、しかもこの869列車は寝過ごして遅れて乗務した機関士と蒸気圧の調整に手間取ったことにより操車場を定刻よりも8分遅延して出発していた上に、発電機の不調でヘッドランプが通常の光量(ワット数)を満たしていなかった事が判明した。そしてこの事実が後に当該乗務員のみならず、国鉄・田端機関区の組合員たちに対する疑惑を招くことになる。

※下山総裁を轢いた869貨物列車の牽引機・蒸気機関車D51-651号機は、1943年(昭和18年)10月26日に、死者110名・負傷者107名を出した常磐線土浦駅列車衝突事故を起こした車両でもある。また下山事件を経た後には、この呪われた機関車の車番を“ムゴイ(惨い)”と呼ぶ向きもあった。下山事件後には各地の機関区を転々とし、1972年5月30日に伯備線新見機関区の所属をもって退役。

※当該貨物便の機関(運転)士は、下山が仙台機関区長だった頃の部下でもあり、事件後に抑鬱の症状を来たし数年後にストレス性の胃潰瘍で死亡したが、一部ではこの人物の最後も怪死として騒がれた。

【下山の5日午後の行動】下山総裁は、5日の午後1時40分過ぎには轢断地点に近い東武伊勢崎線五反野駅改札で改札係と話を交わしており、その後、午後2時から5時過ぎまで同駅に程近い“末広旅館”に滞在していたことが警察の捜査で明るみに出た。

※後ほど、この“末広旅館”の経営者に対してマスコミからは多くの疑惑の目が持たれた。主人は戦前には特別高等警察(特高)の警察官であった人物で、証言において意図的に警察権力に協力したとされ、また女将は商売上手の信用の置けない女性とされたが、真偽の程は明らかではない。

以後、午後6時頃から8時過ぎまでの間、五反野駅から南の轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装や背格好が下山総裁とよく似た人物の目撃証言が多数寄せられた。

更に捜査の結果を総合すると、下山は既に午前11時半過ぎには三越周辺から離れており、地下鉄で浅草へと移動して午後になると東武伊勢崎線に乗車して五反野駅(足立区)にて下車、“末広旅館”で3時間半ほど休憩したと推測された。

また五反野地区は、下山の遺体が発見された東武伊勢崎線と常磐線の交差地点のすぐ北側方面であり、警察は午後6時から7時にかけて下山がその付近を彷徨(うろつ)いていたという目撃情報を複数得ていた。

※下山が無惨な轢死体となって発見された五反野付近では、17人もの目撃証言が得られた。その最初の目撃者は五反野駅の改札係で、13時45分頃のことであった。それから下山を轢断したとされる貨物列車が東武線ガード下を通過する約1時間前の23時30分頃まで、下山に姿・形が似た紳士が断続的に目撃されることになる。

※五反野周辺での下山総裁と思われる人物の足取りに関しては、荒川方水路を越えた北千住駅に近い地点でも目撃されているが、当時は鉄橋を歩いて渡ることが出来たことから、それ程は不自然ではないとされた。

【死体の検案と解剖】6日の早朝には、轢断現場において東京都監察医務院の八十島信之助医師が遺体の検案を実施した。その結果、自殺あるいは過失による轢死と判断したが、総裁の当時置かれていた状況・立場を勘案した上で司法解剖を行うべきであると上申した結果、午前9時には現場検証は一通り完了し、午後1時頃に下山の遺体は司法解剖の為に警視庁鑑識課の車で東京大学の法医学教室に運び込まれた。

※検案とは、医師が死体を表面から観察して死体の既往歴や死んだ時の周りの状況から死因・死後経過時間などを医学的に推定する事である。但し検案には死因究明に関して限界があり、より詳細な情報が必要な場合は解剖を行わなければならない。

※実際には八十島医師は、司法解剖を実施するか否かは警察の判断に委ねると述べたともされる。

※下山総裁はこの失踪の前日、3万人超の国鉄従業員に対して第一次整理通告を出したばかりだった。

下山総裁の遺体の司法解剖は、執刀医を桑島直樹講師が担当し中野繁̪氏を助手として行われ、法医学教室の古畑教授や裁判化学教室の秋谷教授・塚元助教授を始め、検察からは布施・金沢の両検事、警察からは捜査一課の関口警部補、鑑識課の沢田巡査部長、西新井署の大場・鈴木の両巡査らの立会いのもと、午後1時40分に開始されて約3時間30分後の午後5時12分に終了したとされている。

 

次回の第3回以降では、下山事件の真相に迫る代表的な推論について解説していく。不自然に打ち切られた警察の捜査活動の後、死亡時の状況について法医学者の間でも死後轢断か生体轢断か)意見が分かれ、また肝心な死因に関しても自殺説や他殺・陰謀説などが入り乱れて、長くに渡り多くの議論が繰り広げられることになるが‥‥。

-終-

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