こうして、いよいよDデイに向けた準備が整いつつあった。
そして『オーバーロード』作戦のうち、具体的なノルマンティー海岸への上陸作戦である『ネプチューン』作戦の、連合軍の編成(戦闘序列)と進撃予定は以下の通りであった。
陸上部隊の主力は、地上軍総指揮官の英軍モントゴメリー大将(のち元帥)指揮下に第21軍集団が組織され、米陸軍のオマー・ブラッドレイ中将(のち元帥)率いる米第1軍と英陸軍のマイルズ・デンプシー中将(のち大将)旗下の英第2軍である。
米第1軍は第5軍団と第7軍団からなり、英第2軍は第1軍団と第30軍団で編成されていた。これらの各部隊の、上陸第一波と第二波の兵力の合計は12個師団であった。更に、上陸前夜に東部地区には英第6空挺師団、西部地区の後方には米第101空挺師団と第82空挺師団の3個空挺師団が、落下傘・グライダー降下を実施する予定であった。
【第21軍集団】戦闘序列 1944年6月6日現在 旅団以下や軍や軍団の支援部隊等は省略
■米第1軍
●第5軍団 ・第1歩兵師団 ・第2歩兵師団 ・第29歩兵師団
●第7軍団 ・第4歩兵師団 ・第9歩兵師団 ・第90歩兵師団 ・第82空挺師団 ・第101空挺師団
■英第2軍
●第1軍団 ・第3歩兵師団 ・第3カナダ歩兵師団 ・第51歩兵師団 ・第6空挺師団
●第30軍団 ・第50歩兵師団 ・第49歩兵師団 ・第7機甲師団
英海軍のバートラム・ラムゼー提督(大将)指揮下に編成された海軍部隊は、米第1軍に協力するのが西方海軍任務部隊で、英第2軍に協力するのは東方海軍任務部隊である。その他の予備艦艇も含めて、戦闘艦艇が約1,200隻、上陸用舟艇などの揚陸艦艇が約4,000隻、その他の商船等も含めると参加数は7,000隻にのばった。
空軍戦力は、英空軍のトラフォード・リー・マロリー大将の指揮下に、米第9航空軍と英第2戦術航空軍合わせて11,600機が準備された。更に米第8航空軍や英空軍の爆撃コマンドなども一時的に指揮下に入り、また独軍を爆撃するために合計約5,000トンの爆弾が準備されたという。
主要作戦目標は、上陸後17日~20日以内にノルマンディー地方のサン・ローからコタンタン半島の最北端にある港湾都市シェルブール及びノルマンディー地方の東部地区にある交通の要衝カーンを占領することであった。
そして、次のステップ(Dデイ+50日~60日)ではコタンタン半島から更に西方のブルターニュ半島の港湾都市ブレストを含め、サン・ナゼールやナント以北のフランス西部地区の制圧と、いよいよロワール川を渡り、上陸後90日にはパリに迫ることが大きな目標であった。
また上陸直後の作戦方針としては、最終的には、ノルマンディー海岸に5つの上陸地点、「ソード(Sword)」「ジュノー(Juno)」「ゴールド(Gold)」「オマハ(Omaha)」「ユタ(Utah)」が定められた。またこの上陸作戦の前夜、前述の三個空挺師団による空挺降下が『トンガ』、『シカゴ』、『デトロイト』各作戦として計画された。
英軍は上陸地点の東部地区を担当し、東から「ソード(Sword)」「ジュノー(Juno)」「ゴールド(Gold)」の各海岸に分かれて上陸することになった。上陸後は速やかに交通の要衝カーンを占領し、パリ方面への進撃路の確保を図る。この側面援護のために「ソード(Sword)」海岸の東側に空挺師団が降下し、カーン運河やオルヌ川にかかる橋梁等を占拠する。
米軍は上陸地点の西側を担当し、コタンタン半島の根本付近に設定された「ユタ(Utah)」海岸とその東側の「オマハ(Omaha)」海岸に上陸する。その後は速やかにコタンタン半島を横断してシェルブールを攻略、この重要な港湾都市を独軍から解放する。
また「ユタ(Utah)」海岸は砂丘と干潟に面しており、内陸に向かう道路が少ないので、上陸部隊が海岸地区に封じ込められない様に空挺2個師団が降下、独軍部隊の反撃を食い止めることとし、「ユタ(Utah)」海岸に通じるサント・メール・エグリーズやドーブ川の渡河点等を確保することとした。
さて、上陸地点は前稿にも述べた様に、英仏海峡の最も狭いパ・ド・カレー地区が独軍の迎撃準備も充分に整っていた為、あえてノルマンディーが上陸地点として選ばれたのだが、実際の作戦開始の直前まで周到な欺瞞工作が実行されることになる。
そこで、独軍の目をノルマンディからそらすべく『ボディガード』作戦という大規模な欺瞞作戦が展開された。
これは作戦名『フォーティチュード (Fortitude)』の名のもとに展開され、ノルウェー侵攻を計画した『フォーティチュード・ノース (Fortitude-North)』作戦とフランスのパ・ド・カレー上陸を目指した『フォーティチュード・サウス(Fortitude-South)』作戦があった。
先にも述べた通り、元々、上陸地点の候補はノルマンディの他にもたくさんあった。そのどこに本当の侵攻が来るかを独軍に悟られないようにすれば、その全てに備えねばならない独軍の兵力は広く薄く分散せざるを得ない。また、連合軍がノルマンディに上陸した後も、これは実は本当侵攻作戦の前の牽制作戦であると誤認させることができれば、ノルマンディに投入される独軍の兵力は少なくなるだろうと考えられた。
特にパ・ド・カレー地区への上陸は、実際に検討されたことからもわかるように非常に信憑性が高かかったのだ。そして、これが『フォーティチュード・サウス(Fortitude-South)』作戦となった。
この為に、連合軍はジョージ・スミス・パットン中将(のち大将)をこの作戦担当の部隊指揮官に任命、そしてパットン指揮下の第1軍集団をカレー地区の対岸に配置した。だが実際には、この軍集団には実態のない架空の部隊と、はりぼての車両や舟艇などが配属され、多くの(使用されない)兵舎や司令部等の施設が建設されていた。しかし、シチリア上陸作戦を成功させた勇猛なパットン将軍が指揮していることもあり、独軍はこの部隊が欧州上陸作戦の主力であると思いこんでしまう。そこで、ノルマンディーに連合軍が上陸しても、暫くの間、独軍はカレー地区から有力部隊を移動させようとはしなかった・・・。
空軍もこの欺瞞作戦に協力し、パットンの(実態のない)第1軍集団の上空にはわざと敵の偵察機を侵入させ、本物の駐屯地の上空は鉄壁の守りで独空軍の空中偵察を許さなかった。
『フォーティチュード・ノース (Fortitude-North)』作戦としては、ソーン中将の北方兵団(これも幽霊部隊)をスコットランドに配備し、あたかもノルウェーに進攻すると見せかけた。独軍はこの架空の脅威の為、この地域の多くの部隊を動かせなかった・・・。
また、『フォーティチュード・ノース (Fortitude-North)』作戦を更に支援するために『スカイ』作戦と言う欺瞞作戦も展開された。これはスコットランドから無線交信を頻繁に発信して、侵攻作戦がノルウェーあるいはデンマークを目標としていると独軍に疑心暗鬼させるために行われたという。
もちろん独軍側も、本当の上陸地点を探るための諜報活動を活発に実施しており、当然ながら英国においても広範なスパイ網を構築していたが、不運なことにほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレー地区であることを示していた。しかしこれは、英国側の逆スパイ(二重スパイ)作戦が功を奏したもの、ともいわれている。
そして欺瞞作戦は可能な限り続けられ、またノルマンディ以外の地域の独軍のレーダーや防衛施設への爆撃は大々的に継続された。これは徹底していた模様で、ノルマンディーへの数倍以上の爆弾量でパ・ド・カレー地区を猛爆撃し、あくまでパ・ド・カレー地区が連合軍の上陸目標地点であると独軍に思わせる事を目的としていた・・・。
(次回の、「独軍側の迎撃態勢編」に続く)
【ノルマンディー上陸作戦70周年記念(1)】 6月6日Dデイに向けて・・・『オーバーロード』作戦の立案と概要編・・・はこちらから
【ノルマンディー上陸作戦70周年記念(3)】 6月6日Dデーに向けて・・・独軍側の迎撃態勢編・・・はこちらから
【ノルマンディー上陸作戦70周年記念(4)】 6月6日Dデーに向けて・・・上陸作戦前夜編・・・はこちらから
【ノルマンディー上陸作戦70周年記念(5)】 6月6日Dデー・・・上陸作戦当日・前編・・・はこちらか
【ノルマンディー上陸作戦70周年記念(6)】 6月6日Dデー・・・上陸作戦当日・後編 -1、米地上軍の戦い・・・はこちらから
【ノルマンディー上陸作戦70周年記念(7)】 6月6日Dデー・・・上陸作戦当日・後編 -2、英連邦地上軍の戦い・・・はこちらから
【ノルマンディー上陸作戦70周年記念(8)】 6月6日Dデー・・・上陸作戦当日・後編 -3、独軍の戦い 並びに作戦の総括・・・はこちらから
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