俺がいつも利用する駅から、小さな商店街が伸びている。そのはずれにある古びたラーメン店は、入口のサッシがいつもぴったりと閉まっていた。営業しているかどうかもわからないが、わずかな隙間もないほど締め切られたその様子は、この店が安易に人を寄せ付けない意志の表れのように見えた。だが、却ってそれが、俺の中ではとても気になる存在だった・・・。
ある晩のこと、店の近くまで来るとあかりが点いていた。シャッターは上がっており、しかも、ほんの少しサッシが開いていた。そのわずかな隙間から、一筋の光が暗い夜道にすっと線を引いたように伸びている。そして、ガラスごしに人の影が見える。どうやら客が入っているようだ。
入るなら、今しかない。俺はやっと巡ってきた機会に、顔をほころばせながら、勇気を出して店の前に向かった。
恐る恐る少し重いサッシの引き戸を開く。「いらっしゃい」とも、何も声がかからない。カウンターのみであるが、5人ほど客が座っていた。壁に貼られたメニューはラーメンのみである。正油も味噌も塩もない。ただ『ラーメン』とだけ書かれた紙が壁に貼ってある。それでも一応、カウンターの中の太ったオヤジに、「ラーメン」と注文をする。
返事もなければ、ニコリともしない。水はセルフサービスのようで、冷水機からコップに注いで席に座る。一息に飲んで、あらためて店内を見回す。
蛍光灯が天井から白く冷たい光を放つ店内には余計なものが、一切ない。壁にある時計と、銀行の名の入ったカレンダーがぶら下がっている以外は何もない。狭い店内ではあるが、すこし黄ばんだ白い壁が、果てしなく広がっているように思えた。だんだんと不安に感じながら、客の様子を見た。客はスマホをいじるでもなく、本を読むでもなく、一様に目を閉じている。
カウンターの中のオヤジはというと、ゆっくりと何かを確かめるように、手を動かしている。 覗き込んでどんな作業をしているのか見てみたいが、カウンターと厨房の間に仕切られた板があって、厨房に立つオヤジの手元が全く見えない。 それに先程からずっと気になることがある。
食べ物の匂いが全くしないのだ。
スープの匂いも、食欲をそそられるような空気もすべて感じられない。超高性能の換気扇でも付いているのか。あるいは、ラーメンが出来上がったら、一挙に香りが俺の周りにひろがるかもしれない。そんな風に自分を納得させて、ひたすら出来上がるのを待った。
やがて、オヤジがカウンターの上に、重厚な黒い丼を両手で持って、順番に並べだした。どうやら、一挙に完成したらしい。他の客は恭しく丼を手にとっている。俺も空腹で逸る気持ちを抑えつつ、丼を手にした。そして次の瞬間、俺の手の感触は大きく予想に反した。
軽い・・・。
そんな馬鹿なことがと思いつつ、中を見ると何も入っていなかった。
驚いた俺は、文句を言う前に咄嗟に、左右の客の様子を見た。彼らの丼も、同様に空であった。彼らがどういう表情をするのだろう。一斉に文句の大合唱が始まるかもしれない。俺はその瞬間を待った。
しかし、彼らは何事も無いようにカウンターの上の割り箸を取り、割って食べ始めた。いや、正確に言えば食べるまねを始めたのだ。
丼を両手でもち、スープを飲むような真似をしている者。ふうふうと頬をふくらませて、麺に自分の息を吹きかけるような姿をする者。右手を肩より大きく上げて、肘を曲げて麺にかぶりつくような姿をする者。その仕草のあと、みんな一様に、目を閉じてじっくりと味わっているような表情をしている。自分の周りに何が起きているのかわからなかったが、俺はおずおずとカウンターの中のオヤジに声をかけた。
「あのー、すいません」
オヤジが顔をあげたと同時に、カウンターの他の客の視線が一斉に俺に集まる。
「これは、何ですか?」
自分でも“これ”の意味がわからない。この状況を聞いているのか、からっぽの丼のことを聞いているのか。
オヤジも客も、すべての動きが止まり、蔑むような目で俺を見ている。
懸命に言葉を探しながら、聞き足した。
「入れ忘れたってことはないですよね。皆さんの丼も空のようだし。あ、もしかして休業日だったんですか。入口が少し空いていたから入ってきてしまいました。今日は接客の練習か何かしていたんですか?」
空気は全く動かない。俺は思わず立ち上がった。
「それとも劇団の練習とか?そうでしょう、本当はここはお店じゃないんですよね。すいません、つい店だと思って入ってきてしまいました。そうか、稽古場とかロケのセットとか、そうなんですね。」
早口で弁解したが、彼らの表情は動かない。
俺は焦った。
「あ、そうか、わかった。これはテレビのドッキリ番組か何かでしょう。いやあ、まんまと騙されましたよ。まいったな。」
ひきつった笑い声をあげたが、それも虚しく消えていった。彼らは無表情のままだった。俺は怖さを覚えた。
とにかく、この場を早く去りたい。とにかく金だけ払って、ここを出よう。そう思って、尻のポケットに手をかけようとすると、
「あんた、ここが何をしているところか知らないのか?」カウンターに座る薄いヒゲの男が、鋭い目で俺を見つめて聞いてきた。
「はい、全く知りません。ラーメン屋じゃないんですか?」俺の声を聞いて、彼はしばらく黙り込んだ。他の連中も腕を組んで考え込んでいる。時計の音と、彼らのため息しか音は存在しなかった。
「一体ここは何をしているところですか?」
彼らは、何か考え込んでいる。
これ以上、沈黙が耐えられない。財布を探して再びポケットに手を動かした時だ。
「誰にもしゃべらないと、約束できるか?」カウンターの中のオヤジが口を開いた。
「どういうこと・・・」
「しゃべらないと約束できるかと聞いている。」
この店から出さないという雰囲気でオヤジは俺の言葉を遮って聞いてきた。
俺は圧倒され、かろうじてうなづいた。やがてゆっくりとオヤジは語りだした。
「ここは、本当の味を求めて、ラーメン屋の店主が集まる場所だ。しかし、ここでは一切、ラーメンは出さない。出す必要がないからだ。」
どういう意味なのか、俺は少しでも理解しようとオヤジの顔を見続けた。
「ここに来る人たちは、自分の味を持っている。ところが彼らは迷う。もっと旨い味があるのではないか。自分の作るものはこれで完成したと言えるのか。自分の味の原点は何か。そしてどこを目指していくのか。」
カウンターに並ぶ人々の視線が少し穏やかになったように感じた。
「私は10代の頃からラーメンの魅力にとりつかれ、あちこちで修行した。旨い出汁を作りたくて、鰹節工場に住み込みで働いた。最高の素材が欲しくて、漁師と一緒に網を引いたり、農家で野菜の収穫も手伝った。もちろん日本中のラーメン屋を食べ歩き、何軒もの店で修行した。20代後半でラーメンの屋台を引き、5年で店を出した。」
「マスコミにも何度も取り上げられたよ。店には行列の絶えることは無かった。しかし、私の疑問は高まるばかりだった。自分が十分に満足の行く味が出せなかった。十分に満足できるものなどないのではないかと、常に考えていたんだ。そして、まもなく私はラーメン屋をやめた。その代わり、私と同じように悩む人々を救いたいと思った。味や技を伝えることではなく、自分の心が探せる場所を作りたいと思った。それが」オヤジは誇らしげに店の中を見回して言った。
「ここさ。」
カウンターの人々は、すっかり柔らかい表情になっていた。オヤジは続けた。
「あなたはバカバカしいと思っただろう。大の大人がからっぽの丼を持って、ラーメンを食べる真似事をしているのだから。しかし彼らには湯気の上がるスープや麺の輝きが見えているんだ。口の中には、まだ知らぬ味が広がっているんだ。彼らはここに来て何かを得て、明日から再び、それぞれの店の厨房に立つ。あなたはここで金を払う必要はない。ただ、ここで見たことや聞いたことは決して人には伝えてはならない。」
俺は店を出た。味に悩み、答えを求めようとする彼らに愛おしささえ覚えた。彼らが求めたがっている何かを探す場所を提供しているオヤジに、優しさと強さを感じた。何か見てはいけないものを見てしまったような気分と同時に、俺だけがこのことを知ったことに嬉しさを感じていた。
その後、あの店のサッシはぴたりと閉まったままだ。いつかまた、あのドアを引いて、空想に満たされた空間に入っていく姿を見られるのだろうか。いや、見られなくてもいいのだ。俺が見ていないだけで、きっとあの店には人があつまっているはずだ。
俺はそんな事を考えながら、今日もあの店の前を通り過ぎている。
〈了〉--
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