道教の教えに基づく「三尸説(さんしせつ)」をベースに、仏教や神道などの各種宗教や信仰が複合して出来たものが『庚申信仰』です。その庚申信仰にかかわる庚申年は60年に一度、庚申日は年に6回(年によっては7回、この年を「七庚申年」と呼ぶ)ほど巡ってきますが、今年(2015年)初の庚申日は2月13日となります・・・。
道教においては、人が庚申日に当たる日の夜に寝りにつくと、体内から「三尸(さんし)の虫」が抜け出し天上界に上り、天帝にその人の犯した過ちや悪事を報告して、報告を受けた天帝はその罪の軽重に応じて、その人の寿命の長短を決める(場合によっては命を奪う)とされていました。
そこで、長生きを願う人々はこの日は眠らずに徹夜して身を慎み、また6度の庚申の夜を無事に勤めきれば願いが成就するとされており、これが本来の庚申信仰による、「守庚申(しゅこうしん)」と言われる行事でした。
平安時代の朝廷・貴族社会における庚申の御遊(ぎょゆう)は、庚申信仰に基づいて行われたものです。
誰しも、多少の(小さな嘘をついたとかの)過ちは身に覚えがありますから、自分のことを天帝に報告されては困るので「三尸の虫」が自分の体から抜け出さないようにと、上述の通りその夜は謹慎して眠らずに過ごすというのがその行いでしたが、やがて時代を経るとともに、歌を作ったり音楽を楽しんだり、また碁や双六などをしたといいます。
そして時には酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなっていきました。
これを庚申の御遊と言ったそうですが、鎌倉時代には上級の武士階級に、そして室町時代の中期から後期にかけては武家全般に広がり「庚申待(こうしんまち)」(織田信長が庚申待と称して酒宴乱舞の宴を開いたとの記録もある)となりました。更に以降、江戸時代には庚申を祀る集団である「庚申講(こうしんこう)」が結成されて、一般民衆にも普及していきます。
この様に庚申信仰は公家や武士階級だけではなく、広く庶民、例えば地方の農村などにも広がり、やがて本来の趣旨から離れて仏教や神道などの様々な信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合的な信仰となっていきました。
庚申信仰では、人々は天帝の怒りに遭わないようにと、仏教系では青面金剛(しょうめんこんごう)を主尊とし、神道系では猿田彦命(「猿」の字が「庚申」の「申」に通じていた為)が主に祀られたようです。
青面金剛は元々疫病を流行させる鬼神であり、全身青色で髪の毛は逆立っています。また、体には蛇を巻いており、見るからに恐ろしい形相です。
やがて庚申信仰においては道教の天帝を仏教の帝釈天に置き換えて、(帝釈天の使いでもある)青面金剛ともども帝釈天の掛け軸をかけて祀ったことは有名で、これらの掛軸がやがて塔となり、各地に庚申塔が建設されます。そしてその後は庚申塚や庚申堂が建立されていきます。
また庚申信仰が仏教と結びついた際に、「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することで山王の神使である猿を祀る形となっていきました。この関係で、(猿の化身ともいわれる)青面金剛像や庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が描画されることが多かった様です。これは三猿を「三尸の虫」になぞらえて「見ざる・言わざる・聞かざる」で、天帝に人の罪や悪事を報告させない為、とも云われています。
更に、青面金剛の掛軸や庚申塔に鶏が描かれているのが多いのは、庚申信仰の信者が鶏が鳴く頃には庚申の祀りを終えて寝に入ったからであり、その理由は古来より鶏が鳴くと夜の間に跋扈していた悪霊や邪鬼どもが退散するとされ、すべての禍は去っていくといわれていたからだそうです。
こうして江戸時代は仏教式の庚申信仰が大変盛んになった時期でしたが、明治維新を経て大正期には急速に衰退していきました・・・。
-終-
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