やがて476年には西ローマ帝国が滅亡し、その後、「ロンギヌスの槍」はフランク王国の国王であるカール(シャルルマーニュ)大帝の手に渡ったとされます。そして彼も、聖槍を常に携帯し戦いに臨みました。
西ヨーロッパに広大な王国を建国したカール大帝は、800年にローマの教皇から西ローマ皇帝に任命され、後には東ローマ帝国からも承認されました。そして、彼の築いた国は後の神聖ローマ帝国へと連なります。
一時、その行方が不明となった時期がある槍ですが、オットーⅠ世以降は神聖ローマ帝国の皇帝に代々受け継がれ、『聖遺物』として皇帝の権威の象徴とみなされました。
その後、銀製の鞘の上に黄金製の鞘(後述)を重ねたのは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の孫にあたる皇帝カール4世だとされています。
しかし、やがて「ロンギヌスの槍」はカール4世の子孫が貧困のあまりニュルンベルクの町議会に売り渡してしまったとされ、15世紀の初頭以来18世紀の終わり頃までニュルンベルクで保管されていました。
ナポレオンの侵攻以降はウィーンに移され、後ほど触れるオーストリア併合以後、ナチスの手でニュルンベルク(聖カトリーナ教会)に戻されましたが、戦後には再度、ウィーンに戻りホーフブルグ宮殿(厳密にはウィーン自然美術史博物館)で公開されています。
研究調査の結果、この槍の大部分は鉄製と判明しています。1970年に付着物除去作業が行われた際にも、特に特筆される付着物は検出されなかったといいます。
また、一番外側を覆う黄金製の鞘の表面には「神の釘、神の槍」と記載されています。この黄金製の鞘の下には、十字架が描かれた釘が埋め込まれているそうで、更にこの鞘の下層には銀製の鞘がある事が判明しています。
そこには、ラテン語で「聖モーリスの槍」と書かれていたそうです。 銀製の鞘の他の部分には「ローマ皇帝ハインリヒ3世が、聖なる釘と聖モーリスの槍を保護・強化する為に、この銀の鞘を造らせた」とラテン語で記述されていると云います。(Metallurgist and AuthorのRobert Feather氏の研究調査による)
ローマ帝国から神聖ローマ帝国に受け継がれた「ロンギヌスの槍」以外の聖槍に、アルメニアのエチミアジン大聖堂に保存されている聖槍がありますが、現在のゲガルド修道院がある場所で発見されたとされています。
伝承によると、この聖槍を持ち込んだのは12使徒の1人タダイとされています。 この地に流れてきたタダイは聖槍を所持していたことで、地元の異教徒に恐れられ惨殺されてしまいました。しかし、タダイによりキリスト教徒に改宗されていた人々が、聖槍を秘密の洞窟に隠していたのです。
200年間にわたり隠されていた聖槍ですが、後にこの槍を手にしたのはアルメニアで福音書の教えを広めようとしたグレゴリウスでした。 しかし、グレゴリウスも異教徒に捕らえられ、ホルヴィラップ修道院の地下牢に13年間もの間幽閉されてしまいます。ところが グレゴリウスはそこから奇跡的に脱出に成功し、聖槍を取り戻すと異教徒と闘い退けました。 そして、その地の王と民衆をキリスト教に改宗させて、301年にアルメニアは世界初のキリスト教国家となったのです。
しかしこの槍は「ロンギヌスの槍」ではない様です。アルメニア教会も槍がローマ兵のものでは無い事を認めており、イエスの時代にユダヤ人兵士が使用していたものとしています。
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