《歴史豆辞典》 殿中でござる!! -江戸城内の重大事件簿- 〈25JKI39〉

忠臣蔵321BAX4YBDNL殿中、つまり江戸城内での殺人もしくはそれに近い重大な傷害事件は、江戸時代を通じて9件ほど発生しています。

著名な事件も含まれていますが、今回は簡単に各事件の概要のみを紹介します・・・。

 

江戸城内の重大事件簿

当然ながら、殿中(江戸城の本丸・西の丸 表御殿)での刃傷沙汰には厳しい処罰が待ち受けており、刀の鯉口(こいくち)を切って刀身を三寸抜いただけで(つまり刀を9cmほど鞘から引き出したら)、本人は切腹、その家名は断絶という重たい仕置きが待っていました。

これは将軍の執務場所でもあり、徳川幕府の最高政庁である江戸城の中で、恐れ多くも刀を抜いて争うなどは以ての外であり、当たり前ですが武士間の喧嘩沙汰などは厳禁でした。

それでも刀を抜いて切り掛かるには、已むに已まれぬ事情があった上で、相当の覚悟が必要であったと思います。

中には、発作的で幼稚な犯行もありますが、見方を変えれば、仇相手に供の者もいないことだし近くに寄ることも可能で、かえって殿中のほうが確実に討ち果たすことが出来ると考えられたのかも知れません。

それでは、江戸時代(約260年間)を通して行われた凶行(9件)の数々を簡単に紹介していきます。

楢村孫九郎 vs 木造三左衛門、鈴木宗右衛門

寛永四年(1627年)11月6日、御小姓組の楢村孫九郎が西の丸で当直中に、相番の木造三左衛門や鈴木宗右衛門を相手に口論となり、やがて刀を抜いての喧嘩となりました。近くにいた曽我又左衛門と倉橋宗三郎が止めに入りましたが、双方ともに負傷し深手を負った倉橋は後ほど死亡します。楢村孫九郎は組頭の屋敷にて切腹、喧嘩相手の木造と鈴木は楢村から逃げたことが卑怯である、として家名断絶となりました。尚、曽我と倉橋には褒美に各々二百石の加増がありました。

豊島明重 vs 井上正就

寛永五年(1628年)8月10日、旗本で目付の豊島刑部少輔明重(信満、正次とも)は、老中で(遠江)横須賀藩主の井上主計頭正就の嫡子正利と大坂町奉行であった島田越前守直時の娘との縁組をまとめ、仲人を務めることになっていました。しかし将軍家光の乳母であった春日局の横槍でこの縁組は破談し(正利は春日の斡旋で鳥居土佐守成次の娘と縁組)、仲人としての面目が丸潰れとなったことを恨んだ明重(加えて堺奉行への内定を破棄されたことも要因との説もあり)は、江戸城西の丸廊下で正就に対し「武士に二言は無い筈だ」と叫びながら襲い掛かり斬殺しました。番士の青木忠精が明重を羽交い締めにして取り押さえましたが、明重は自分の腹を刺し貫き、巻き添えになった忠精ともども絶命したといいます。

事件後、井上家には特にお咎めなしとされ、正利への相続が認められました。豊島家は、嫡子継重(当時14歳)の切腹が申し渡され家名も断絶となりましたが、老中酒井忠勝の意見により他の一族への連座はありませんでした。また島田直時はこの事件への責任を感じて自害しています。

ちなみに、豊島家の遺児は後に紀州藩に仕え、吉宗が将軍になった際に土岐氏と名を変えて御家人になったと云われています。

この事件は被害者が老中だったこともあって、衝撃的な出来事だった様です。そして、まだ江戸時代も初期の頃の為か、加害者に対する処罰も厳しいようです。

稲葉正休 vs 堀田正俊

3件目は、加害者も被害者も大物の事件です。貞享元年(1684年)8月28日に、若年寄の稲葉石見守正休が「天下のため、覚悟!」と叫んで大老の堀田筑前守正俊を本丸表御殿で殺害しました。また不思議なことに稲葉は、周囲にいた老中や若年寄たちに事情聴取もされず直ちに無抵抗のまま切り殺されています。

原因は稲葉正休の乱心によるとされていますが、真相に関しては諸説があり、一説によると正休は正俊を嫌っていた将軍綱吉の密命で堀田大老に辞任を迫ったが、その意思がないことを知って斬殺に及んだとされています。その後、稲葉家は改易、堀田家は嫡子が継ぎましたが、所領は移転となりました。

この事件は、稲葉家と堀田家が親戚関係にあり、ともに幕府の重臣で上司と部下の関係にあったことや、その犯行の動機も不明であり、いろいろと謎の多いミステリーとして有名になりました。

浅野長矩 vs 吉良義央

元禄十四年(1701)、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつけた、皆さんご存知の(本丸)松の廊下事件です。内匠頭は即日切腹、その後、赤穂の浅野家は取潰しとなりましたが吉良側はお構い無しであり、これが赤穂浪士の仇討ち・吉良邸討ち入りへと繫がりますが、あまりにも有名なこの事件に関しての説明は省かせて頂きます。

多賀主税 vs 川口権平

享保元年(1716年)6月27日、小普請奉行の多賀主税と同役の川口権平が殿中の詰部屋で口論がもとで切り合い、数日後に双方ともに死亡しました。多賀家は700石、川口家は300石の旗本でしたが、喧嘩両成敗でともに改易となりました。

水野忠恒 vs 毛利師就

享保十年(1725年)7月28日、本丸松の廊下で信濃松本藩主の水野隼人正忠恒が、長府藩世子の毛利主水正師就を斬りつけますが師就は一命を取り留めます。忠恒の供述によると、自分は不行跡が多く家臣にも人気がないので、水野家は改易されてその所領は毛利家に移るという噂があり、その噂を信じて事件を起こした(扇子の受け渡しで馬鹿にされたと勘違いしたとの説もあり)とのことでしたが、実際にはそのような事実は無く、結局、忠恒の乱心として事件は処理されました。水野家は改易となり、忠恒は叔父の水野忠穀の浜町の屋敷で蟄居し、後に死亡します。この忠恒は、もともとバカ殿だった様です。棚ぼたで藩主となりながらも酒色に溺れ、政治は家臣任せでした。

ところで水野家は、分家の若年寄水野壱岐守忠定の奔走で、忠穀に信濃国佐久郡に7,000石(高野町知行所)が与えられて旗本として家名は存続することになります。そしてその後、忠穀の嫡男である忠友の代には大名に返り咲き、やがて彼はおバカな従兄とは違って老中にまで登り詰めます。

板倉勝該 vs 細川宗孝

延享四年(1747年)8月15日、旗本の板倉勝該(修理)が江戸城大広間脇の厠付近で、肥後熊本藩主の細川越中守宗孝を刺殺した事件が起きました。日頃の素行不良から本家筋の大名である板倉佐渡守勝清(のちに老中)に廃嫡されると思い込んで逆恨みしていた勝該は、板倉勝清と間違えて細川宗孝を背後から斬殺したのです。この時、死亡した宗孝には嫡子も養子もいなかったため細川家は断絶の危機に見舞われましたが、たまたまそこに居合わせた仙台藩主の伊達宗村が機転を効かせて「まだ息がある」と言い張り、急ぎ藩邸に宗孝を運ばせるとともに、末期養子の手続きを進めさせました。細川家ではその日の内に弟の細川重賢を養子に迎え、幕府への届出が受理されたので、宗孝は翌日に死亡したことにしました。

その後、板倉勝該は切腹を命じられましたが、躊躇した為に打ち首同然で介錯されました。当然ながら、板倉勝該の家は断絶しましたが、他の一族は連座を免れました。

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細川家 九曜星紋
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板倉家 九曜巴紋

勝該は、板倉勝清と細川宗孝の姿かたちが似ていた上に、板倉家の「九曜巴」紋と細川家の「九曜星」紋が極めて似ていたことで、背中の家紋を見間違えて宗孝を斬りつけてしまったと云います。そこでこの事件があってから、九曜紋を「苦労紋」とか「苦悩紋」などと呼んで嫌うようになり、使用するのを敬遠する者が増えたそうです。また細川家でもデザインを少し変更しました。

尚、殺人の動機に関しては、ひと間違え説以外に隣接する屋敷を巡る揉め事が原因との異説もあります。

佐野政言 vs 田沼意知

天明四年(1784年)3月24日、旗本で新番士の佐野善左衛門政言が、賄賂政治で知られる老中の田沼主殿頭意次の嫡子で、当時、若年寄だった田沼山城守意知を江戸城の中ノ間から桔梗の間付近で襲撃しました。原因は、佐野家の系図や領地の横領、昇進を望んで賄賂を贈ったのに無視された為など、いろいろな説があります。

意次が死亡したことを受けて佐野政言は切腹、佐野家は改易となります。しかし、世間から人気のなかった田沼の息子を斬ったということ(並びに丁度高騰していた米価が下がったこと)で、世間からは「世直し大明神」として崇められたと云います。

ところがこの犯行も、表向きは佐野の乱心による単独犯行とされて幕引きが為されましたが、どう考えてもキナ臭い事件ですよね。黒幕として反田沼勢力の大物(松平定信とか)が暗躍していたのではないか、との説が多くあります。

松平忠寛 vs 本多伊織、沼間右京、戸田彦之進、間部源十郎、神尾五郎三郎

最後の刃傷事件として文政六年(1823年)4月22日、 西の丸御書院番休息所において旗本の西の丸御書院番士、松平忠寛(外記)が虐めを受けた復讐に同僚の旗本を斬りつけ、本田伊織、沼間右京、戸田彦之進の3人が死亡し、間部源十郎、神尾五郎三郎が負傷しました。

本懐を遂げた松平忠寛は、顛末を書いた遺書を残して立腹を切って自害します。その後、松平の家は父の頼母が罷免されましたが、子の栄太郎の家督相続が許されました。しかし、死亡した3人の所領は没収となり負傷しながらひたすら逃げ回っていた五郎三郎の神尾家は改易、同じく負傷した間部源十郎は隠居させられます。他にも逃げ回っていた池田吉十郎や小尾友之進などの多くの武士たちが降格ないし隠居とされました。

この事件の動機は、旗本の風紀が大いに乱れていた当時、新参者虐めの風潮の中でも忠寛が古参者におもねらず、また将軍の鷹狩で拍子木役に抜擢されたりしたことに他の者が嫉妬して一層陰険な虐めを繰り返したため、遂に堪忍袋の緒が切れた忠寛が侮辱を受けた同僚たちに意趣返しを果たしたものです。

それ以降は、番士の風紀は引き締まり虐めも影を潜めたと云います。またこの事件は広く世間に喧伝され、忠寛の復讐劇の痛快さや自ら命を絶った潔さに世人は惜しみなく拍手を贈り、「千代田の刃傷」として文学、演劇などの素材にもなりました。

その他の刃傷沙汰

上記以外には、 寛文十年(1670年)に殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり水野は刀を抜いてしまいます。その結果、彼は殿中での抜刀の罪で死罪となりましたが、喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪でした。まぁ、厳密には未遂事件なんですが、刀を抜いた側は極刑とされました。

城外乱闘? では、何と言っても有名なのは桜田門外の変でしょうが、ぐっと昔の話として、正保三年(1646年)4月8日に、家光の側小姓であった高島左近(当時19歳)が松平伊豆守の屋敷近くで小従人(小十人)の赤井弥兵衛を斬殺して切腹となった事件があります。左近は家光の寵臣でしたが、喧嘩っ早くて暴れん坊、江戸の町民からは「奴左近」と呼ばれていたようです。

臆病者にはなりたくない

武士はたとえ被害者であっても相手から逃亡し、背後から斬られることは「不覚」・「武士にあるまじき行為」とされ、自らに非はなくとも家名断絶や御役御免などの厳しい処分が下されることがありました。そこで、突然斬りつけられても果敢に対処し、襲撃者に立ち向かうことが求められました。

当事者以外の事件に遭遇した周辺の武士たちも、見て見ぬふりをしたり逃げ隠れした者は、臆病者として何らかの処罰を受けました。

しかし、本来、戦うことが仕事の職業軍人である武士たちですが、江戸時代も後半になると軟弱で情けない者が多くなります。被害者側やたまたま事件に出くわした者でも、逃げたことで処分を受けた者が大半を占める様になっていきました。

 

この様に殿中で刀を抜くことは、きつい御法度でしたが、誰しも激昂して興奮状態となってしまえば、そんなことには構っておれなかったんでしょうね。

しかし大事件が起これば、加害者には厳罰が下ります。その結果が抑止力となって暫くの間は事件が起きません。だいたい30年間隔で重大な傷害事件が起きているのは、その為なんでしょう。

つまり前の事件の凄惨な記憶が薄れた次の世代の頃になると、また新たな事件が発生してしまうと考えられるのです・・・。

-終-

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