《大阪の陣での活躍》
池波正太郎氏は、著書『戦国と幕末』の中の「関ヶ原と大阪落城」の冒頭に毛利勝永を登場させて、策謀と打算に満ちた関ヶ原の戦いを「あのようなものは、まことの武人の戦ではない」と述べさせている。
そして勝永は大阪入城に際し、「儂(わし)は関ヶ原のやり直しをする」と周囲に語り、特に夏の陣では真田と並ぶ見事な活躍をするが、彼は当時38歳、武将としての充実期であった。
その勝永だが、豊臣家と徳川家の対立が激化して後、慶長19年(1614年)に大坂方から招き(豊臣家々臣の家里伊賀守が使者として土佐を訪れたとされる)があると、「故太閤様には大変深い恩がある」として早速、海を渡って大坂城へ向かった。
この時の土佐からの脱出に際しては、留守居役の山内康豊に対して徳川方の藩主山内忠義のもとへ行かせて欲しいと頼み、長男の勝家を留守居にした上で、次男の鶴千代(太郎兵衛)を人質として残すと申し入れて騙し、実際には勝永と共に勝家も船で逃げ去り、大坂方に走ったのだった。
山内忠義は激怒して、勝家の見張り役だった山内四郎兵衛に切腹を命じ、鶴千代並びに勝永の妻と娘を拘束させた。
さて、勝永の毛利家は元来は秀吉配下の譜代大名だったこともあり、彼は大坂城に入ると真田信繁(幸村)や後藤又兵衛基次らと共に「(牢人)五人衆」と呼ばれる武将団の一人として一軍を統率することになった。
しかし冬の陣では、真田らと共に積極的な野戦・出撃策を唱えたが容れられず、消極的な籠城戦を戦い西ノ丸西と今橋を守備した。こうして勝永は大した戦果も残さず和平を迎えている。この冬の陣では、明らかに真田信繁(幸村)が真田丸攻防戦で活躍したこととは対照的である。
そして難攻不落の大阪城は主要な外堀を埋められ、その堅守は無残にも無意味な状態となり、翌年を迎える。
慶長20年(1615年)5月5日、徳川軍が再び京都から大坂へ進発し大坂夏の陣が勃発した。
翌6日には、勝永は後藤基次隊や真田隊と共に、大和路方面を進む徳川方の部隊を叩くために出撃したが、ここで勝永と信繁(幸村)は濃霧の為に戦場への到着が遅れてしまい、先行していた後藤基次隊は単独で多数の敵方と交戦状態に突入し壊滅してしまい、又兵衛基次も壮烈な戦死を遂げる(道明寺の戦い)。
真田隊が伊達隊を足止めしている内に、勝永は敗退した後藤隊や薄田隊らの敗残兵を収容。一旦、藤井寺付近に布陣した後、諸将と協議の上で自ら殿軍を務め、味方の軍勢を順次退却させた後、機を見て大阪城へ無事撤退した。
更に翌日の5月7日、勝永は兵数4千ほどで天王寺南門の前、真田隊と茶臼山を挟む形で布陣した。ここで秀頼の出撃を待ち出馬と同時に攻撃を開始する予定であったが、現実には秀頼の出馬は取り止めとなり、また敵方の進撃スピードが早かった為に、正午頃には逸った配下の将兵が鉄砲を乱射、徳川方への攻撃を開始してしまった。(開戦のタイミングに関しては真田隊との連携が上手く取れなかったともいい、後々の明石全登隊の後方迂回突入が失敗する要因にもなったとの説もある)
こうして毛利勝永隊は一気に乱戦に巻き込まれ、世に言う大阪の陣最後の戦い、天王寺・岡山の合戦が始まった。
しかし当初、毛利隊は破竹の勢いで進軍し、本多忠朝や小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り前進を続けた。
その後、他の大阪方の諸隊が敗色濃厚な中で、勝永の隊は浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純らの軍勢を次々に撃破するという大活躍を見せる。
ところが、午後3時頃には先行して家康本陣に突入した真田隊が壊滅し、戦線が崩壊した。
しかし真田隊が家康の本陣を急襲できたのは、後方での毛利勝永隊の働きがあったからだと考えられる。多くの徳川勢を引き寄せて拘束した勝永の活躍が真田の突撃を可能にした。ところが真田勢が全滅すると、徳川方の兵力は毛利隊に集中、ここに至り勝永は粛々と撤退を開始した。
退却においても勝永の指揮ぶりは水際立っており、追撃してきた藤堂高虎隊を撃破し、井伊直孝隊や細川忠興隊らの攻撃を防ぎながら大阪城内へと粛々と撤収したという。
そして炎上する城内に戻り、最後は山里曲輪で豊臣秀頼の介錯をした後に、嫡男の勝家(享年14歳)、実弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉で静かに腹を切って自刃したという。安穏と土佐で余生を終えず、豊家に対する義を貫いた末の見事な最期だった。(秀頼を介錯したのは速水守久との説もある)
大阪夏の陣の後、徳川家康は、土佐の山内忠義に捕縛されていた勝永の妻と娘、そして次男の鶴千代(太郎兵衛)を京へ護送するように命じ、わずか10歳の鶴千代(太郎兵衛)は斬首とされたというが、これには異説がある。
『兵家茶話』や『常山紀談』などによれば、妻子の安否を気遣い大阪方に味方することを躊躇う勝永に、その妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励ましたとされる。後にこの話を聞いた家康は、「勇士の志、殊勝である。妻子を罪に問うてはならぬ」と命じて、勝永の妻と娘、そして次男の鶴千代(太郎兵衛)を保護したという。
この様な勝永を巡る逸話をもう少し紹介すると、『大坂陣聞書』には、道明寺・誉田の戦いの時、後藤又兵衛基次他の名のある武将を死なせた真田信繁(幸村)は自分を責め、「濃霧の為とは云えこの責任は大きい。このまま真田隊も突撃して全員討死する」と勝永に述べたが、逆に「遅参は貴殿のせいではない。どうせ死ぬなら、明日、願わくば右府(秀頼)様の馬前で華々しく戦って死にましょうぞ」と励まされたという話がある。
また『武家事紀』には、勝永隊の天王寺口の奮戦の様子を遠望していた黒田長政が、傍らの加藤嘉明に「あの際立った闘いをしているのは誰だろうか」と尋ねた。嘉明は長政をまじまじと見返して「黒田殿はご存じなかったのか。彼こそは亡き毛利壱岐守殿が嫡男、豊前守勝永でござるよ」と答えた。それを聞いた長政は「少し前まで、まだ子供だと思っていたのに、さても歴戦の勇将のようだ」と驚き、その采配を激賞したという逸話が残っている。
他には、真田隊とともに毛利勢の奮闘の様子については、片桐且元の家臣であった山本豊久という人物の『山本豊久私記(山本日記)』の中の記述にも見えるという。
後に土佐の山内家では、毛利勝永の旧臣であった杉助左衛門という者に命じて勝永の事績をまとめさせた。そしてこれが『毛利豊前守殿一巻』として山内家に伝来することになる。現在、毛利勝永に関する事柄の多くがこの『毛利豊前守殿一巻』に基づいており、平時にはその人柄は温順寛厚で、人当たりの良い人物でもあったようだ。
後年(1921年)に、明治・大正期のジャーナリストで史論家の福本日南が、この書籍を参考に『大坂城の七将星』を書いている。
江戸時代の京都町奉行所与力で文人でもあった、神沢杜口(かんざわ とこう)が自著の『翁草』の中に残した「(大坂の陣を語るに)惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」という言葉がある通り、活躍の割には知名度も低く現存する肖像画も無い不遇の武将である。筆者もネットで彼の画像を随分と探したが見当たらなかった。ちなみに、神沢杜口の祖先、神沢理右衛門八勝は勝永の家臣として大阪の陣を戦ったという。
また、大坂の陣の戦闘を見聞した宣教師の記録に、「豊臣軍には真田幸村と毛利勝永というすさまじい気迫と勇気を持った指揮官がいて、家康本陣に何度も猛攻を加えた。そこで敵軍の大将である徳川家康は色を失い、日本の風習に従って切腹をしようとした」と記されているという。
毛利勝永隊の猛攻やその奮戦は、歴史的な史料で明らかだ。但し冷静にその戦闘状況を精査すると、毛利隊前面の徳川方の諸隊が、本多忠朝隊、小笠原秀政隊などを含めて少兵力の部隊ばかりだったことに注目したい。逐次遭遇する小部隊を順次打ち破って行ったのだろう。
開戦劈頭、毛利隊が最初に易々と本多忠朝を討ち取ったことは、忠朝が酒癖の悪さから叱責を受けたことで自暴自棄となっての無謀な突出が大きな原因だろうと思われるが、更に、徳川方の将兵と比べた場合、既に死を半ば覚悟した毛利隊の将士のメンタル面での強固さとの違いは大きい。
もちろん、毛利隊が強かった最大の理由は、勝永の指揮官としての資質であり用兵の巧みさであろうが、上記の通り、前面の敵が少兵力もしくは弱兵ばかりだった可能性も高いのだ。連携の取れていない小部隊であれば、これを連続して撃破することは不可能ではない。
また、毛利隊が真田隊の後を追うように家康本陣に迫るも、藤堂高虎、井伊直政等の有力な部隊に撃退され、それ以降は、徳川諸部隊の追撃を受けつつ、大坂城への撤退戦を繰り広げたことも、やはり大兵力で戦巧者が指揮する優秀な部隊との激突では、前進は困難であったことの証だ。
とは言え、攻撃面のみならず特に難しい撤退戦での類稀な指揮は際立っており、5月6日の道明寺の合戦での撤収時や翌日の天王寺・岡山の戦いで、大坂方にあって最後まで統制のとれた戦線を維持したのは毛利勝永隊のみであった事からも、その手腕の程は大きな評価に値するだろう。
勝永の、最後の最後まできちっと事を為して終わろうとするその執念が、どちらかと云うと綺麗ごとに逃げ急いだ様にも見える真田信繁(幸村)よりも、もっと評価されて良いのではなかろうか。
もし真田信繁(幸村)がいなかったら、毛利勝永は後世、もっと知名度が上がっていたかも知れない人である。特に夏の陣では、真田より意味のある戦闘行動をしたと評価するむきもあるようだ。
次回以降暫くの間、個人の武勇を誇った部隊長クラスではなく、司令官級の大物武将を紹介していこうと思う。勝永に引き続き大阪方の「五人衆」のひとり、『明石全登』あたりに登場願う予定だ。
-終-
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