《江戸の三大道場》 2回目は、力の「斉藤」と言われた神道無念流斉藤弥久郎の「練兵館」をご紹介します。この道場からは、桂小五郎、高杉晋作ら長州藩士を中心とした面々が育ちました・・・。
「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と云われた、幕末江戸の三大道場を3回に分けてご紹介するシリーズの2回目。今回は斎藤「練兵館」のご案内です。
「練兵館(れんぺいかん)」は、斎藤弥九郎によって開かれた、神道無念流の剣術道場。 文政9年(1826年)、九段坂下俎橋(まないたばし)付近に開設され、のちに九段坂上に移転しました。
斎藤弥九郎/齋藤彌九郎(さいとう やくろう)は、諱は善道(よしみち)で通称が弥九郎。晩年に「篤信斎」と号しました。越中国射水郡仏生寺村(現在の富山県氷見市仏生寺)で斎藤新助(信道)の長男として寛政10年1月13日(1798年2月28日)に生まれたとされ、明治4年10月24日(1871年11月14日)に亡くなった江戸時代末期/幕末から明治初年頃にかけての神道無念流の剣術家です。
弥九郎は、文化7年(1810年)13歳の時に一旦、越中高岡へ奉公に赴きましたが立身出世の志を捨てきれずに帰郷し、15歳となった文化9年(1812年)に苦労の末、江戸に出ました。
江戸では同郷人で清水家の家臣であった土屋清五郎の紹介で、4,500石の大身旗本、能勢祐之丞の家人(小者)となります。その後、苦労人で表裏の無い弥九郎の、職務に対する真摯な態度と夜遅くまで勉学に励む姿勢に、能勢はいたく感心して学資を応援することとしました。ちなみに、弥九郎は後に能勢家の用人堀和兵衛の養女を妻に迎えることにります。
さてそこで、学習意欲の人一倍高い弥九郎は学問と武芸の両立を目指し、古賀精里に儒学を、文学は赤井厳三、兵学を平山行蔵に、馬術を品川吾作から、そして高島秋帆には砲術を学びます。また剣術は岡田十松吉利の神道無念流道場へと入門しました。
特に才能を発揮したのが剣術で、彼の修業ぶりは目覚ましくやがて岡田の神田猿楽町の「撃剣館」門下生随一の腕前となり、23歳の時には師範代となります。
そして弥九郎はここで、終生の友となる江川太郎左衛門英龍と出会うことになります。太郎左衛門が岡田十松の道場で剣術の稽古をしていた頃、その稽古相手をしたのが兄弟子の弥九郎でした。やがて二人は大変親しくなり、開明的で新知識を多く持っていた太郎左衛門から、弥九郎は海外の趨勢や新時代の扉を開く世の動きを教えられます。
また「撃剣館」では太郎左衛門以外にも、三河田原藩の渡辺崋山や水戸藩の藤田東湖らと親しくなる機会を得ました。
弥九郎が高島秋帆から砲術を学んだのも、太郎左衛門から紹介されたからだと云われています。後年のことですが、天保6年(1835年)に太郎左衛門が伊豆韮山代官の職を継いだ時には、江川のもとで手代として仕えることになります。
文政3年(1820年)に岡田十松が没した後、弥九郎は後継者である岡田利貞の後見役を務めていましたが、6年後の29歳の時に独立し道場を開らきますが、その費用は全て江川太郎左衛門が出したそうです。
この最初の道場が天保9年(1838年)3月の火事で焼失した為に、冒頭に記した通り九段坂上に新たな道場を開設します。
神道無念流は稽古によって心身を鍛えることを重視する流派であったが故に、その稽古は激烈を極めたと云いますが、「練兵館」の場合は、剣術のみならず学問も重んじ、更に弥九郎は剣術道場の主でありながら、これからの時代は剣よりも鉄砲や砲術が武術として重きを置くことを見極めており、門人たちには剣術や他の学問だけでなく砲術の習得を勧めました。
「練兵館」には、全国諸藩から多くの入門者が集まりましたが、特に弥九郎の長男である斎藤新太郎が廻国修行で各地の剣豪を破り、それを知った長州藩では神道無念流を高く評価して、藩士の多くを江戸の「練兵館」に送って修行させたのです。
そこには塾頭を務めた桂小五郎(木戸孝允)のほか、高杉晋作、品川弥二郎、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、太田市之進らがいますが、長州藩以外にも大村藩の渡辺昇などを含めて、剣技だけではなく、時代の先を見据えていた弥九郎に多くを学ぼうとする姿勢が見て取れます。
例えば、江川太郎左衛門の建議による嘉永6年(1853年)の品川の台場建設では、弥九郎は連日現場を訪問しては太郎左衛門を助けました。この時、弥九郎の門人桂小五郎は、砲術の勉学の為にと、弥九郎の弁当持ちに扮して毎回供をしたといいます。(桂は江川の付人としても各地の台場を見学している)
こうして弥九郎の門下生からは、明治維新の原動力となる人物が多く輩出されました。他の幕末江戸の三大道場の二つの道場が、どちらかと云えば剣術だけの道場にすぎなかったのにくらべて、弥九郎の「練兵館」では多くの学問が奨励され、特に西洋式の兵学や砲術などの研究も盛んでした。
尚、他の有名な門下生には、津山藩の井汲唯一、斎藤弥九郎と同郷の仏生寺弥助、長岡藩の根岸信五郎、壬生藩の野原正一郎、園部藩士の原保太郎などがいます。しかし、後に新選組で活躍する永倉新八は、同じ神道無念流ですが「練兵館」ではなく、岡田利章(3代目岡田十松)の「撃剣館」で学びました。
しかし進歩的な弥九郎の思想やその論客ぶりは、同時代人の保守的な剣術家達ちにはなかなか理解出来なかったようで、一部からは「山師の弥九郎」と言われたり、法螺吹き呼ばわりされていたそうです。
尚、弥九郎は江川太郎左衛門らによって目を開かれ、単なる剣術使いから脱皮していったと思われますが、坂本龍馬を桂小五郎に引き合わせた人物は太郎左右衛門であった、ともされています。
安政3年(1856年)、59歳の時に、長男の新太郎に弥九郎の名を継がせて自らは篤信斎と号しました。維新後の明治4年(1872年)に亡くなり、享年は74歳でした。
明治維新後、「練兵館」は東京招魂社(現靖国神社)創建により立ち退かざるを得なくなり、明治4年(1872年)、牛込見附内に移転しましたが、以降、文明開化の影響で剣術は廃れ、さしもの「練兵館」も衰退へと向かいます。
そのはるか後年、昭和50年(1975年)に斎藤弥九郎と縁のある斎藤信太郎氏により、栃木県小山市に剣道道場として再興されましたが、神道無念流ではなく現代剣道の稽古をしているそうです。
次回はいよいよ最終回、位の「桃井」と言われた鏡神明智流桃井春蔵の「士学館」をご紹介する予定です!!
-終-
《江戸の三大道場》千葉「玄武館」の巻、や~ぁ!!・・・はこちらから
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