ここで兼相の激闘を講談調で活写すると・・・、
敵方の鉄砲の集中砲火に味方が寸断されたと見るや、「我こそは薄田隼人なり」と名乗りをあげた彼は、薙刀(なぎなた)を振り回しながら敵中に突入し、群がる敵を次々に切り伏せるが、しかし何と言っても多勢に無勢。一旦退いた兼相だが、状況を見回した後、やがて再び決死の戦いに飛び込んでいった。
その後、薙刀の刃が欠けた彼は槍に持ち替えて、またまた突いては捨て、突いては払うが、しかしいくら蹴散らしても次から次に新手の敵兵が襲い掛かってきた。
遂に槍も折れてからは、三尺六寸の大太刀を振りかざし、バッタバッタと斬っては捨て、斬っては払いと力戦する。
この奮闘ぶりを見た敵将の「鬼日向」こと水野勝成が、「誰か、あの者を討ち取れ!!」と自軍に檄を飛ばした。
するとこの言葉に応えて、果敢にも水野家々臣の川村新八重長が馬上の兼相を斬りつけた。そこへ新八と兼相の闘いに加わる形で中川島之介なる者が兼相の乗馬へ槍を突き立てた為、馬はよろめき、兼相はドスンと落馬した。
しかし兼相は、その剛腕で新八と島之介を強引に引き寄せて、二人ともに切り払おうとしたところへ、これも水野家の寺島助九郎が兼相の足を斬りつけた。
さすがの兼相も、あまりの痛みにのけぞるところを、新八と島之介が同時にその体を刺し貫き、ここに一代の豪勇の士、薄田隼人兼相は絶命したのだった・・・。
となるが、川村重長が一人で討ち取ったとする説や異説には渋谷右馬允(うまのすけ)なる武者が討手であったともいう。また討ち取ったのは水野勢ではなく本多忠政や伊達政宗の家臣であるとの説もあり、真実は不明だ。しかも、銃撃によって死亡したともされるが、この可能性も高い。
しかし、かなり史実に近いとされる記録でも、兼相は乱戦の中、自ら槍を振るって戦い、その槍が折れたら太刀で、太刀が刃毀れしたら折れた槍の柄を用い、それすらも使えなくなったら素手で闘ったと伝えられているように、まさしく大激戦を繰り広げたのだった。
島津家の文書『薩藩旧記』においても、この日の兼相の働きぶりは「古今東西において、類稀なる働きをした勇士」と称されている。
こうなると単に死に場所を求めて闘ったとしか思えないが、当時の大阪方の名のある武将は皆、同じ様な境遇であった。この絶望的な戦いこそが、兼相にとって、「武士の面目」を回復する最期のチャンスだったのだ。
この時、兼相率いる兵数400、直接対戦した徳川方は水野勝成隊3,800と云われている。薄田隊の右翼に位置した井上時利の部隊も本多忠政隊5,000に踏み潰されたが、後段の明石全登の隊がなんとか敵方の攻撃をしのぎ戦線を維持した。(明石、薄田、井上の諸将の合計で3,000弱の兵力との説が有力)
道明寺・誉田の戦いは、この後、遅れて戦場に到着した毛利勝永と真田信繁(幸村)の両隊が徳川軍と遭遇。特に真田隊が伊達政宗軍10,000を3,000の兵力で迎え撃って互角の戦いを繰り広げる。伊達軍の先鋒は有名な片倉重長の騎馬鉄砲隊だったが、真田の巧妙な采配に翻弄され、伊達勢は一旦後退する。
以後、しばしの睨み合いの末、道明寺・誉田の戦いは終結。大阪方の諸兵は城に向けて撤退した。
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