本稿は、中国清朝、愛新覚羅氏の溥儀・溥傑、そして溥任の三兄弟について解説した記事です。
清朝最後の皇帝『宣統帝』(愛新覚羅溥儀氏)の弟と云えば、溥傑氏を思い浮かべる人が多いと思いますが、更に下の弟の溥任氏が亡くなったそうです‥‥。
中国の法制晩報(電子版)によると、愛新覚羅溥任(あいしんかくら ふにん)氏が10日、逝去されました。享年は96歳ですが死因は不明とのこと。
溥任氏は1918年9月、清朝の醇親王載灃の四男として北京で生まれました。清朝最後の第12代皇帝であった兄の溥儀(ふぎ)氏が、我国軍部の傀儡政権だった満州国の皇帝(康徳帝)に即位する一方で、溥任氏は満州国建国活動には参加せず、戦後の1947年には小学校を設立し校長を務めるなど教育事業に従事した後、北京市の人民政治協商会議(政策助言機関)の委員を3期務めました。
後年は一教師として暮らしながら、清朝関係の研究や書画作者として活動したと言われています。
兄の愛新覚羅溥儀氏は、清朝第12代にして最後の皇帝(在位期間は1908年12月2日 ~ 1912年2月12日)、幼帝として即位し宣統帝となりました。
辛亥革命で1912年に退位、1924年に馮玉祥のクーデタで紫禁城を脱出した後、日本の保護を受けます。その後、満州国執政(1932年3月9日 ~ 1934年3月1日)、そして1934年には同国の皇帝となります。
終戦と同時にソ連に抑留され、1950年に中国で戦犯として裁かれた後、1959年には特赦を得ました。1967年(昭和42年)10月17日に北京で癌により死去、享年は62歳でした。
溥儀氏の弟としては、長弟の溥傑(ふけつ)氏が日本国内では有名です。兄ともども日本軍部の力を借りて満州に愛新覚羅(金/女真)一族の国家を再興するべく、自身は日本の陸軍士官学校・陸軍大学を卒業し満州国軍人となりました。
その後、侯爵嵯峨実勝の長女で、昭和天皇の遠縁にあたる嵯峨浩(さが ひろ)さんと結婚しました。
終戦後は兄とともにソ連軍に捕らえられてシベリアに抑留されましたが、1950年には中華人民共和国に送還され、戦犯とされました。
1960年には釈放され、北京に帰ることを許されます。翌1961年、二人の娘とともに命辛々日本に帰国していた妻の浩さんとの再会を果たし、その後、文化大革命を生き残り全国人民代表大会常務委員会委員を務めたりもしましたが、1994年2月28日に死去しました。
溥傑氏の妻の浩さんは1987年6月20日、夫に先立ち北京で亡くなりましたが、次女の嫮生(こせい)さんは日本に留まって日本人と結婚、現在、兵庫県西宮市に在住しています。
しかし学習院大学に進学していた長女の慧生(えいせい)さんは、1957年12月に天城山心中で死亡した女性として広く知られています。
この愛新覚羅氏の人々のように、歴史上の人物と思っていた人たちが、現在やほんの少し前の時代まで生きて生活していた事には、大変な驚きを禁じえません…。まさに「歴史」を身近に感じさせる瞬間です!!
-終-
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