【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (前編) 〈1031JKI51〉

18時42分~19時01分

出航後間もなくして南南西からの風が強くなり、視界も急激に悪化する。そこで18時42分、航程35海里地点において、近藤船長は平館海峡(下北半島北部西岸と津軽半島北部東岸との間にある海峡)へのこのままの状態での進入は危険と判断、函館港に戻る形で北西やや西方向へと転針するが、積載の貨物のバランスが崩れて船は大きく横揺れ(ローリング)を起こし始めていた。

その後、函館港から5km程度の地点で更に波浪が激しい状況に遭遇し、函館港口通過の直前から40mもの強風を受け始めた近藤船長は、このままでは安全な航行はムリであり、函館港には戻らずに投錨して天候が収まるのを待つと決意した。

そして18時55分頃には函館港の防波堤西出入口を通過、風下に大きく圧流されながら暫く西向きに針路をとった後、両舷主機械を運転しつつ風上に船首を向けて回頭、船位の維持に努めながら、19時01分に函館港防波堤灯台付近の海上(同燈台から真方位300度0.85海里の地点)に投錨し仮泊した。またこの時、投錨に際しては最初は右舷錨を投下して錨鎖を6節まで延出したが錨が効かないので、更に左舷錨も投下(双錨泊)、左舷7節、右舷8節としたという。

この頃になると、より空は暗く風雨が激しくなり船体も大きく揺れだした。実は、この段階では第15号台風は日本海を移動中に急速に速度を落としていた為、まだ北海道に到達していなかったのだ。まさに洞爺丸が投錨した時間帯以降に、自然の悪魔はいよいよ最接近する形となったのである。

 

19時30分頃~19時50分頃

以後も一向に風は収まらず、波浪はより激しくなり、投錨した当初はエプロン甲板と車両甲板の後端に寄せる波が時々打ち付ける程度であったが、19時30分頃からは大きな縦揺れ(ピッチング)によって、車両甲板船尾開口部から海水が流れ込む様になり、徐々に車両甲板上に海水が溜まり始めた。そして船体の縦揺れに伴い車両甲板を覆う海水が同甲板上を船首の方へ流れる様になった。

19時50分頃に錨を両舷とも8節としたが、船尾車両搭載口より進入した海水が完全に車輌甲板を浸し、水密が不完全であった車輌甲板からボイラー室や機関室へと浸水が広がり、既にこの時点で蒸気ボイラーへの石炭投入が困難となっていた。

洞爺丸は、19時52分、前方やや右に大間崎灯台を短時間確認したとされるが、この頃には波高も平均約6メートルに達し、防波堤に当たった返し波とぶつかり合って錨地附近は複雑な波で覆い尽くされていた。

また平均で40メートル、更に瞬間風速では優に50メートルを超える南西方向からの暴風と強烈な大波の為に、20時頃から走錨(荒天錨泊中に把駐力とプロペラの推進力を上回る風波で圧走して錨が反転、錨鎖を引き摺りながら船舶が流される状況)が始まる。

 

20時05分頃~20時25分頃

機械室では20時05分頃より左舷後部逃出口から海水の流入が始まり、その後左舷前部逃出口、前部、後部の空気口、右舷出入口からの流入へと拡大した。

この頃、船長は作業員(乗員)に指示を出して、開口蓋閉鎖の再確認とスカッパー(船舶の甲板上の両舷側にある排水孔)の排水確保や積載車両の緊締具の増し締め(既に締結されているボルトやナットをさらに締め込む)作業などを実施させたが、開口部の密閉が完全に出来ない状況の中、波浪は増す一方で、車両甲板上へ流入する海水量も刻一刻と増大し、多くの物が船体の動揺に伴って流動するので作業は大変危険な状況となっていた。

またボイラー室でも、20時15分頃に左舷後部逃出口周縁からの浸水に続き、右舷後部逃出口からも浸水が始まった。

20時25分頃、船体が左舷に大きく傾斜した時、左舷側の4、6号缶の石炭取り出し口から石炭が海水と共に流出、続いて右舷傾斜時には右舷側の3、5号缶の石炭取り出し口からも同様の流出が起きた。

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