海軍々縮条約の制限下、日本海軍がその性能を極限まで追求したのが巡洋艦という艦種である。我国の造船技術の粋を集めた高速の万能汎用艦たちは、太平洋戦争中、その広大な戦域全体にわたって活躍を繰り広げた・・・。
そこで「日本海軍 巡洋艦物語」として、驚異的な高性能をその優美な姿に秘めた連合艦隊の優駿たちの、壮烈な戦いの記録を連載することにした。そしてその初回として、筆者幼少の頃からの大のお気に入りであった軍艦、重巡洋艦の『鳥海』を -前・後編- の形で取り上げる。
『鳥海』の誕生
『鳥海(ちょうかい/てうかい)』は、日本海軍の重巡洋艦であり、『高雄』型/クラスの3番艦。艦名の由来は秋田県と山形県の県境にある「鳥海山(愛称は出羽富士など)」で、艦内神社も鳥海山大物忌神社より分祀された。『鳥海』という名の日本海軍の艦船としては2隻目に当たり、明治~大正にかけて摩耶型砲艦の2番艦に初代にあたる同名の艦が存在した。
尚、現在は1998年に竣工した海上自衛隊のイージス艦、『こんごう』型護衛艦の4番艦が『ちょうかい』という艦名を受け継いでいる。
一般的に『高雄』型は『高雄』を1番艦とし、次に『愛宕』、そして『鳥海』、最終4番艦が『摩耶』の順とされており、『鳥海』は3番艦であったと認識されている。但し、竣工は『摩耶』と同じ昭和7年(1932年)6月30日だが、起工(1928年3月26日)はだいぶ(約8ヵ月も)早かったが、逆に進水日(1931年4月5日)は(約5ヵ月ほど)遅かった為に、『鳥海』を4番艦と解釈する場合もある。
また『高雄』型は公的・書類上では日本海軍最後の一等巡洋艦(重巡洋艦)となった。それは、その後に建造された『最上』型や『利根』型が二等巡洋艦(軽巡洋艦)として計画され、現実に喪失するまで書類上の変更はされなかったことによる。ちなみに日本海軍は、昭和9年(1934年)以降は主砲口径が15.5cmより大きいものを一等、15.5cmまでの巡洋艦を二等と分類していたので、その大きさや排水量による区別はないが、主砲が換装されて口径が大なっても『最上』型や『利根』型の巡洋艦の艦艇類別は変更は為されなかった。
さて、『高雄』型は所謂(いわゆる)改『妙高』型の超重装備の重巡洋艦である。当時の日本海軍はワシントン条約の制限の下で、『妙高』型を超える基準排水量1万トンの条約型重巡の建造を目指したが、これが後の『高雄』型である。
このクラスの設計が開始されたのは、大正12年であったとされる。当然、前クラスの『妙高』型も未だ竣工していないはるか以前の時期であった。そして基本設計は平賀譲博士(造船中将)の後任の藤本喜久雄造船大佐(後に少将)により描かれたが、海軍軍令部の要求は『妙高』型とは異なったコンセプトに基づくものであった。その後、正式には昭和2年(1927年)成立の艦艇補充計画に『高雄』型の建艦計画は盛り込まれた。
そしてその独特の要求仕様とは、『高雄』型全艦が艦隊旗艦設備を備えるものであることにあった。戦隊の旗艦とは異なり、艦隊旗艦の場合は関係するスタッフの人員数もはるかに多く、通信設備も強化され、各兵科の指揮所や作戦室、司令部員の居室などの様々な設備が必要となり、この為に『高雄』型は、あの特徴的な巨大な艦橋構造物を備えることになるが、ちなみに艦橋構造物に関しては、建造途中に実物大の指揮所模型を製作して、工事が進んでいる『高雄』の船体上に設置して試験を実施したという逸話もある。
しかしこの大型の艦橋は全部で10層ほどあり、その容積は『妙高』型の3倍にもなり、船体重心のトップ・ヘビィ化が懸念された。後に発生した友鶴事件や第四艦隊事件の反省からこの艦橋の縮小改装が行われてやや小型化するが、その後でも非常に大きな艦橋構造物を保有していた艦であった。
そして諸外国の海軍関係者からは、この巨大な艦橋及びその周辺構造物が実戦では格好の攻撃目標となるとか、ひたすら用兵者の要求を受け入れた過剰設計であり、まさしく「愚の骨頂」であるとの批判もあり、まるで「(動物の)カバの様だ」と揶揄されたという。
ところが、現実には旗艦任務においてその広い指揮空間の活用は大いに効力があり、また日本海軍としては『高雄』型が想定する主戦場は夜戦であった為、艦橋の大きさが砲戦時の目標となり易い点は特に問題視されなかった。そして、後の太平洋戦争での実戦体験でもマイナス点よりもプラスの事の方が多かったとされる。
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