22時39分・22時41分
22時39分、洞爺丸はSOSを発信した。「 SOS de JBEA、洞爺丸、函館港外青灯より267度8ケーブルの地点にて座礁せり」との電文を発し、直ちに函館海保局が「JBEA de JNI RRR SOS」と応答。この時、船体の傾斜角度は右舷側約45度に至っており、22時41分には再度、「本船、500キロサイクル(kc、現在のキロヘルツと同一)にてSOS、よろしく」との通信を送ったのを最後に連絡は途絶えた。
しかしこの時点では、当該の無線を傍受した陸上の関係者たちには、このSOSにそれほどの緊迫性を感じていた様子は見られず、洞爺丸が沈没の悲劇に見舞われると予期した者はごく少なかったという。
22時43分頃~22時45分頃
この頃になると、なんとか船体を引き止めていた左舷の錨鎖が、強大な波浪に耐えきれず断裂してしまう。洞爺丸は既にこの時点で、復原力を完全に失っていたとされるが、一説にはそれは船底の横揺れ防止フィン(ビルジキール)が座礁して乗り上げた海底の砂地に突き刺さった為であるともいわれている。
洞爺丸は22時43分頃、押し寄せた大波により右側へ横倒し沈没し始めた。しかし、機関停止後もボイラーは最後まで焚火(ふんか)を続け、船内は沈没の5分前まで点燈していたとされる。
こうして22時45分頃になると、洞爺丸は函館港防波堤灯(燈)台付近(灯台から337度2,500メートルの)地点で完全に沈没。右舷側に約135度傾斜し、最後には船体は海岸と概ね平行の状態で船底を海上に晒して、ほぼ裏返しとなり煙突が海底に突き刺さった形であった。
洞爺丸の遭難
沈没位置は海岸線(七重浜)まで600mほどの距離であったが、激しい暴風雨の中では泳ぐことも適わず、乗客・乗員合わせて1,314名中1,155人が死亡(行方不明含む)、生存者はわずかに159人という、即ち未曾有の大事故となった!!
また、死亡または行方不明者の内訳は、旅客1,041名、乗組員73名、その他が41名。救助された生存者の内訳は、旅客が110名、乗組員38名、その他11名である。
尚、死亡・行方不明の数は、1,171名や1,172名、更に1,175名という説もある。また救助された生存者に関しても、163名とする史料もある。
この台風により、青函連絡貨物船の十勝丸、日高丸、北見丸、第十一青函丸も函館港付近で転覆して沈没(乗組員合計275人が死亡)するなど、全国で1,130余隻の船舶が被害を受けた大災害であったが、このことに関しては(後編)で改めて記述する。
尚、洞爺丸の引上げ・浮揚作業は1955年(昭和30年) 8月25日に完了したが、損傷が甚だしく、復旧を断念して船体は解体された。
さて(中編)では、事故の調査や裁判、そして原因やその対策・措置について述べていくので、引き続きの精読をお願いする!!
-(中編)へと続く-
【国鉄昭和五大事故 -1】 桜木町事故・・・はこちらから
【国鉄昭和五大事故 -2】 三河島事故・・・はこちらから
【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (中編)・・・はこちらから
【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (後編)・・・はこちらから
【国鉄昭和五大事故 -4】 鶴見事故・・・はこちらから
【国鉄昭和五大事故 -5】 紫雲丸事故・・・はこちらから
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