さて、最後に勝成の逸話を幾つか紹介すると、若年の頃(16歳~19歳くらい)の勇猛さに関しては天正7年(1579年)の初陣の後、天正9年(1581年)の高天神城攻めで多く(一説には15名)の首級をあげ、この当時の主君だった織田信長から戦巧者として感状を与えられ左文字の刀と更に永楽銭の旗印を賜ったと伝わる。そしてこの際に勝成は、城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い取り、以後これを自らの守り本尊として肌身離さず身に着けていたとされる。
その後、天正10年(1582年)に徳川軍に属して戦った天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)での甲州・黒駒合戦でも、多数の北条勢(北条氏忠・氏勝が率いる1万にも及ぶ大軍勢と伝わる)と鳥居元忠や三宅康貞らが率いる2千数百の兵と共に戦い、大きな戦果を上げた。尚、この際に鳥居元忠からの連絡不備に承服しかねた勝成は、元忠に抗議した上で「今日より貴殿の指図は受けず、己の才覚を頼りに戦を行いまする」として先陣を切って敵方に突入し、果敢な戦闘の果てに数多くの首級を挙げ、多数の敵将兵を斃したとされる。
また前述の様に天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも奮闘、一番首を獲った。初戦では徳川軍の重臣・石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭となって城に突入するが、善同が夜陰に紛れて逃げ落ちた為に主無き城を占拠した。続いて、小牧山から酒井忠次や榊原康政、大須賀康高、本多康重らに従い木幡城に移動して、羽柴信吉(後の豊臣秀次)攻撃に参加して活躍している。
ところで勝成は、関ヶ原の合戦では美濃大垣城攻めの際に敵将の福原長堯から名刀『名物 日向正宗』(無銘の短刀で刃長は8寸2分、現在は国宝)を奪い取っている。流石に暴れん坊の勝成、ここでも略奪なんて全く問題なし、なのである。
ところでこの『日向正宗』の名は、勝成が所持したことが由来とされている。美濃大垣城を攻めた時に分捕ったとされる為に『大垣正宗』とも称される。それ以前は堅田広澄が秀吉に献上してことで『堅田正宗』と呼ばれていたらしい。もともとは豊臣秀吉が所持していたが家臣の石田三成に下賜されたものと思われ、その後に三成から妹婿の大垣城主である福原右馬介直高(福原長堯)に与えられたとされる。
この短刀は後に紀州徳川家初代藩主の徳川頼宣に伝わり(借金返済の為に勝成が譲ったとの説あり)、承応2年(1652年)12月に頼宣から子の光貞に贈られている。以降は代々、紀州徳川家に伝来した。昭和27年(1952年)11月22日に新国宝指定されている。
また変わった逸話としては、慶長12年(1607年)に勝成は歌舞伎女の出来島隼人(史実上は勝成の側室に数えられている)を身請けして、翌慶長13年(1608年)に京都で女歌舞伎の公演を行わせているが、後に駿府ではこの歌舞伎一座の公演は禁止・追放とされた。尚、出来島隼人の名前は『慶長見聞集』にもみられるが、この話も傾奇者らしい逸話であろう。
更に牢人して放浪していた時代の逸話も多く、虚無僧になったり、姫谷焼の器職人になったりした他、大坂で泥棒家業に手を染めていたという話まである。
『名将言行録』では勝成を、“倫魁不羈(りんかいふき)”(あまりに凄くて誰にも縛ることが出来ない、手が付けられない人物)と評している。また『常山紀談』は「…勝成あら者にて人を物ともせず…」と記している。どちらも彼の豪快で独尊的な性格を表している様だが、一面、勝成の家臣想いの言動はよく知られており、また一旦他家に仕えた旧臣の再仕官を受け入れたりもしているが、体面・面目を重んじる当時の武家社会としては極めて珍しいことである。
この様に数々の武功を挙げているが、気性が激しくて度々刃傷沙汰を引き起こしては仕官をしくじる。そして出奔癖から何度も牢人として各地を放浪したりしながらも、最後には家臣や領民から愛された極めて個性的な人物が勝成だ。
その彼が名君として慕われた理由については、「…下の情をしる事はこれ虚無僧たりし故なり(庶民の気持ちがわかるのは、自分も貧しい虚無僧だったからだ)」(『常山紀談』)と述べているのは大変興味深い。即ち、転落人生を経験して見聞を広めたのが他者/弱者の気持ちや立場を理解することに繋がり、それが後の領国経営や家臣団の統率に役立った訳なのであろう…。だが意外にも、世紀の傾奇者と云われた者にこの傾向が多いのも事実である。
とにかく暴れん坊で堪え性の無いイメージが強い勝成。若い頃は直ぐに牢人となっては主君を何人も変えていて、一つの処に長くは居つかない。そんな彼も苦労の末に家族を持ってからは少しは落ち着いた様子で、またその頃に世話になっていた三村親成(またはその子孫)を、後に福山藩の重臣として迎えたといった義理難いところもあった。
水野勝成に与力として付随していた神保相茂隊が伊達政宗勢により無念の全滅を遂げたことで頂点に達した政宗との確執については、別稿で述べたので敢えてここでは扱わないが、相手が誰であろうと目一杯張り合うところは、いかにも勝成らしい姿である…。
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【大坂の陣・外伝】 伊達政宗の犯罪。嗚呼、無念の神保相茂隊全滅!!…はこちらから
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