【名刀伝説】 同田貫正国〈1345JKI07〉

今回の【名刀伝説】は、肥後の剛刀、同田貫正国を取り上げる。実用性を重視した質実剛健な打刀の代表作である。

 

さてこの刀は、九州肥後国菊池もしくは玉名の亀甲を本拠地に、古刀末期から新刀初期の頃(慶長年間)より江戸時代の新々刀期にかけて活躍した肥後刀工の集団で延寿派の末流とされる同田貫派の、その始祖であり代表格である上野介正国が作刀したものである。

彼は加藤清正の保護を受けて活躍した御用鍛冶で、清正から一字を賜わり「正国(九州肥後同田貫 藤原正国)」と名乗ったという。本来、同田貫正国とは彼が打った刀の総称で、特定の一振を指す名ではない。また同田貫を「胴田貫」または「胴太貫」と表記することもあるが、これは後世の文芸における創作とされる。

上野介正国は、元は小山上野介信賀といい、慶長18年(1613年)11月19日に没したとも伝わる。兄に同田貫清国がおり、この兄の元の名は国勝、弟と同様に清正から一字を授かったという。清国は伊倉で木下同田貫を興したが、但し彼が「同田貫清国」と銘を切った刀は現存しない。

同田貫派の刀の銘には、「九州肥後同田貫」や「肥後州同田貫」、「肥後国菊池住同田貫」などと切るものが多いが、中にはこの刀の様に個銘(刀工個人の銘)のものも数は少ないが存在する。

同田貫正国は、身巾と重ねが厚く、鍛えは板目肌流れ、白ける。また直刃で小乱刃を焼く。実用一辺倒のまさしく実戦的な剛刀である。

歴史上で著名な正国には、徳川家康の家臣、永田正吉(ながた まさよし)が所持していた通称「鍋割り」がある。家康が高天神城攻略からの退却中に、一言坂で武田勢に道を遮られた。この時、家康を先導していた永田正吉が武田方に向かって突進し、鍋のような兜をかぶっていた敵兵を兜もろとも切り伏せて難を逃れたという。この際、家康が正吉の刀を「鍋割り」と名付けたという。刃長二尺三寸九分(約72.4cm)で重ね三分(0.9cm)。差表に「九州肥後同田貫藤原正国」、裏には「八月日」との銘があったという。

また、最近では同じ正国作の一振が玉名私立歴史博物館に所蔵、展示されている。戦後、連合軍に没収された数多くの刀剣類に含まれていたもので、「赤羽刀」と呼ばれていたものの一つである。

 

一連の同田貫派の刀は、武器としての実用性を重視し装飾などを施さない極めて質素な造りをしている。その為に、美術性に乏しく見処(鑑賞価値)の少ない作刀が多いことで、現代では高価だが美術工芸品としての評価は低いとされている。所謂(いわゆる)、剛刀と呼ばれる類の刀であり、質実剛健で頑強なところが大きな特色だったこともあり、切腹の介添や罪人の斬首、胴切りなどにも多く使われていたという。

現存する同派の刀の多くがまさしく実戦的な武器そのものであり、全体的に無骨なイメージで、刃肉豊かで切先が伸び、長寸のものが多い。その特徴は「折れず曲がらず」であり、切れ味は「斬るよりも断つ」とされ、互いに鎧を身に着けた相手と戦う合戦時においては史上類稀な威力をみせたとされる。

しかし、江戸期に入り天下泰平の世となり実戦が遠のくと、敵味方ともに鎧を着用しない素肌剣法が広まり、刀にも気品や優美さなどの美的価値が求められるようになった。その為、武器としての威力を極めた武骨な同田貫派の剛刀は、評価を落としてしまうのだった。

この様な経緯から、同田貫派は江戸前期から中期頃においては振るわない。しかし、江戸時代も後期から幕末の新々刀期には正国直系の子孫の大和守正勝や、その子の宗廣が現われて中興の祖となった。また宗廣と同じく水心子正秀(「新々刀」の祖)の門人で、「兜割り」(後述)の作刀者である同田貫正次も活躍する。

尚、宗廣の作刀は特徴は、身幅が広く重ね尋常であり、切先伸び心で反りが適当で深いものが多い。鍛えは小板目もしくは杢目肌だが、肥前刀に似た小糠肌や備前伝の丁子乱れ刃を焼いたものも見られる。茎は切りに筋違の化粧鑢をかけ、刻銘は「肥後同田貫宗廣」や「肥後同田貫延寿宗廣」、「小山延寿太郎藤原宗廣」など様々があった。

 

さて「兜割り」に関してだが、明治19年(1886年)11月10日に東京府麹町区紀尾井町の伏見宮貞愛親王邸へ明治天皇が行幸し、この時に披露された弓術、席画、能楽、狂言の他に、刀による鉢試しが後に『天覧兜割り』と呼ばれたのである。

この『天覧兜割り』で、直心陰流の剣士、榊原鍵吉が同田貫正次(業次作との説もある)の一振を用いて鉢試しを行い、見事、明珍作の十二間筋の兜に、切り口三寸五分(約10.6cm)、深さ五分(1.5cm強)の斬り込み跡を残して成功させた。

この時、数名の挑戦者の中で兜割りを成功させたのは榊原だけであり、榊原も本番に挑む前に様々な刀で試し斬りを行っていたが、結局は同田貫以外では成功しなかったといわれている。

この話は榊原の剣豪としての名声を高めたと共に、改めて同田貫派の打刀の実用度の高さを世に広く知らしめ、現在まで語り継がれている逸話である。

 

近年の芸能の世界では、『子連れ狼』の主人公、拝一刀は同田貫の遣い手とされている。また、『三匹が斬る!』の「千石」こと久慈慎之介や、『必殺仕事人』の一人畷左門の愛刀が同田貫である。

余談であるが、ゲーム『刀剣乱舞』での同田貫は「兜割り」であるとすれば、上野介正国の作刀ではなく、正次作の新々刀であることになるが・・・。

-終-

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