【歴史ミステリー】 江戸隠密界のスターたち(1) 隻眼の武芸者 柳生十兵衞三厳 〈2316JKI00〉

十兵衛1yagyumunenori隠密(おんみつ)とは、主君などからの密命をおびて秘かに情報収集や破壊工作などに従事する者のことをいう。今でいうスパイや諜報工作員みたいなものか・・・。

映画やTVの世界だと忍者や兵法武芸者などのイメージが強いが、連歌師とか虚無僧姿なども隠密の隠れ蓑として利用されたらしい。

実際には、ごく普通の商人などの姿をとることが多かっただろうし、江戸幕府の隠密などは堂々と役人姿で調査・探索行為におよんだ場合もあるようだ。

 

数回にわけて、この人、もしかすると江戸幕府の公儀隠密だったのでは? という人を紹介していこう。

第一弾は、皆さんご存知の隻眼の剣豪、柳生十兵衞三厳(みつよし)の巻!!  有名な、幕府剣術指南役で初代の幕府惣目付(後の大目付)の柳生但馬守宗矩の長男である。

 

柳生十兵衞三厳、その生涯

◆生誕から死去まで

十兵衞は、慶長12年(1607年)に大和国柳生庄にて生まれたと云われている。元和2年(1616年)、10歳の時に初めて2代将軍徳川秀忠に謁見し、その後、13歳で徳川家光の小姓となり、その寵隅も甚だ厚かった。しかし、寛永3年(1626年)20歳の時に家光の勘気に触れて蟄居を命じられ、小田原の阿部正次のもとにお預けの身となった。

三厳自身によると、小田原に蟄居して間もなく故郷である柳生庄に移り、それから再出仕を許されるまでの12年間は柳生に籠って、亡き祖父の柳生宗厳(石舟斎)が残した口伝や 目録を参考にして、剣術・兵法の研鑽に専念したという。

致仕してから11年後の寛永14年(1637年)に江戸に戻り、改めて父・宗矩の下で相伝を受け、その極意を伝書として提出した。しかし一旦、宗矩にその内容が不充分であるとして印可を断られるが、父の友人の禅僧・沢庵和尚の助言と教示でようやく印可を認められた。

印可を得た翌年の寛永15年(1638年)には、家光に重用されていた次弟の友矩が病により役目を辞したのを機会に、再び家光に出仕する事を許され書院番に任じられた。

翌年の寛永16年(1639年92月14日に、家光の御前で弟の宗冬と共に兵法を上覧し、この時期に代表作とされる著作『月之抄』などを著している。

正保3年(1646年)には父の宗矩が死去。遺領は宗矩の遺志で兄弟の間で分知され、三厳は八千三百石を相続して家督を継いだ。その後、間もなく官職を辞して故郷の柳生庄に引き篭もったと見られるが事情は不明である。

慶安3年(1650年)に、鷹狩りのため出かけた先の弓淵で急死したという。享年44歳。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺、並びに奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にある。

◆トレードマークは“隻眼

若い頃に失明したという説があるが、たしかに眼帯をした“隻眼”のイメージが強い。これは幼い頃「燕飛」の稽古で「月影」の打太刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たったとの説(『正傳新陰流』)や、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために礫を投げつけたのが目に当たったという説(『柳荒美談』)などがある。

しかし、肖像画では両目ともに描かれており、当時の資料・記録の中に十兵衛が隻眼であったという記述は無い。ちなみに、隻眼となった時、とっさに無事な方の目を覆いながらも、構えを崩さなかったという逸話がある。

◆剣術修行と隠密活動

仕して柳生の庄に移り、それから再出仕を許されるまでの12年間は、諸国を廻りながら武者修行や山賊征伐をしていたという話もある。このことは、宝暦3年(1753年)に著わされた柳生家の記録文書である『玉栄拾遺』にも記載されている。

しかし、家光の勘気を蒙って致仕したというのは、実は公儀隠密として働くための偽装であり、父・宗矩の指示を受けて様々に活動したという説もあるのだ。またこの説の延長として、薩摩藩に潜入した際、偽装の為に嫁を取って2年間暮し、遂には子まで設けたというが、さすがにこの辺は後世の脚色だろう。

◆その逸話

・京都粟田口にて数十人の盗賊を相手にしながら、12人を切り捨て、追い散らしたという(『撃剣叢談』)。

・全国各地の道場を訪れては仕合をしつつ、諸国を巡ったという(『柳荒美談』)。

・酒乱につき、僧の沢庵宗彭にも再三、忠告されている(『沢庵和尚書簡集』)。これが致仕の原因ではないかともいわれている。

・父、宗矩の高弟の木村友重(助九郎)とは交流があり、伊香保温泉で剣術・兵法について問答を交わしている他にも、友重の門弟に対して教授を与えている(『木村助九郎兵法聞書』9。

・伊賀・正木坂にて道場を開き、全国に13,500人にも及ぶ門弟を育てたという(『柳生の里』)。

・鍵屋辻の仇討ちで知られる荒木又右衛門の師とされている(『武術流祖録』)。

・ある浪人と試合をした際に、一見相討ちに見えたものの、十兵衛は己の勝ちであり、これがわからないようでは仕方ない、と言った。相手の浪人の希望で真剣で再試合をしたところ、浪人は瞬く間に斬り倒され、十兵衛は着物が斬られたのみで傷一つなかった。これを以て「剣術とはこの通り一寸の間にあるものである」と述べたという(『撃剣叢談』)。

・十兵衛が鍔に柔らかい赤銅を用いていたのを、兵法者として心得不足であると咎められたところ、自分は鍔に頼った剣など使ったことはない、と答えた。

・家光の勘気を蒙った理由として、稽古の際、将軍相手にも遠慮をせずに打ち据えたためだという話がある。

・沢庵和尚から、相手の人数を倍々に増やしながら、この人数を倒せるかと問われ、最終的に300人にも達したところで「斬り死にするまで戦うのみ」と返答した。そのような剣は匹夫の剣に過ぎないと喝破され、これをきっかけに沢庵に弟子入りしたという(『柳荒美談』)。

・鉄棒を割った竹で包み、これに漆を塗って固めた「柳生杖」と呼ばれる杖を製作した。またこの杖を使った杖術も考案したという。この杖は現在、芳徳寺で公開されている。

・再出仕する際、柳生庄に杉を一本植えたといわれ、この杉だとされるものが「十兵衛杉」と呼ばれ奈良県柳生町に現存している。

・ある大名の依頼で数十人の家臣を相手にして瞬く間に勝利した後、その後(あと)から出てきた剣士(鳥井伝右衛門)の腕前を一目で見抜いたという(『日本武術神妙記』)。

・腕前においては、「父(宗矩)にも劣らぬ名人」と称された(『撃剣叢談』)。

・手裏剣術の名人である毛利玄達を相手にした際、37本の手裏剣を全て扇で払い落としたという。

・父の宗矩が次男友矩を暗殺したとする説があるが、宗矩に命じられて友矩を討ったのは十兵衛だとするものもある。

・家光の辻斬りを知った十兵衛は、通行人にとして(女装説もあり)待ち構えていて家光を懲らしめる。その結果、将軍もこの不埒な行いにつきいたく反省するのだが、十兵衛も主君に対する自らの行為の行き過ぎを恥じて、家光のもとを出奔したともいわれている。

・十兵衛の差料の内、大刀は三池典太光世といわれている。

◆その一族・縁者

母は豊臣秀吉が若年時に仕えていた松下之綱の娘・おりんである。同母弟には、柳生宗冬(飛騨守)、異母弟に柳生友矩(刑部・左門)、列堂義仙がいる。

柳生新陰流とは

新陰流(しんかげりゅう)は、上泉伊勢守信綱が戦国末期に生み出した剣の流派で、柳生石舟斎宗厳以降、柳生家に相伝されたが、同家が伝えた新陰流のことは敢えて柳生新陰流と称される事が多い。

十兵衛の父、但馬守宗矩は石舟斎の五男だったが、彼は剣術の技量よりも政治力で徳川幕府に認められ幕閣として惣目付(後の大目付)まで昇進し、官僚として成功者となる。

だが純粋の剣術としての新陰流は、但馬守の甥である柳生兵庫助利厳によって完成されたと云われている。しかし兵庫助は、尾張の徳川家に仕えた為、その後、兵庫助利厳の流れは尾張柳生と呼ばれ、但馬守宗矩の末裔は江戸柳生と呼ばれた。

 

十兵衞三厳は、惣目付である父親のために全国に広がる門弟集団を通して、幕府のために多くの情報を収集した可能性はあると考えられるが、自らが隻眼の剣士として隠密活動を実施したとは思えない。

しかし当時、宮本武蔵と並び称された剣豪の十兵衞が、隠密剣士として全国行脚をしながら情報収集と破壊工作に従事していたとする説が、多くの講談などの元ネタとなり、後に人口に膾炙したことは素直に肯定出来る話だろう。

やはりロマンあふれるヒーロー伝説が支持されるのは、世の常だからと云う事か‥‥。

-終-

 

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