だが1918年も後半になると戦争は独側の敗戦が決定的となり、マンシュタイン大尉も「ドイツ革命」による11月9日の皇帝ヴィルヘルム2世の退位(オランダに亡命)によるドイツ帝国の崩壊に関しては、他のプロイセン軍人と変わらず大きな絶望感を抱いたとされるが、11月11日には休戦協定が調印されて第一次世界大戦は終結する。
こうして敗戦を迎えたマンシュタインだが、貴族階級出身の軍人が皆そうであったように彼もヴェルサイユ体制には嫌悪感を持っていたと云う。しかし終戦後に誕生したワイマール共和国陸軍に選抜されて軍に残留する決心をして、ブレスラウ(Breslau)の東部防衛隊(国境守備隊)に参謀将校として入隊、ここで1919年まで勤務することになる。
1920年1月に親戚筋に当たるユッタ・シビル・フォン・レシュ(Jutta Sybille von Loesch)と結婚した。彼女との間に娘のギーゼラ(Gisela)、二人の息子ゲーロ(Gero)とルディガー(Rudiger)をもうけたが、長男ゲーロは少尉任官直後の1942年10月29日に東部戦線で戦死している。
1920年10月にはポンメルン(Pommern)州のアンガーミュンデ(Angermünde)に駐留する第5歩兵連隊で中隊長に就任。1923年10月に兵務局(Truppen amt)と呼ばれた実質上の参謀本部に配属され、次いでシュテッティン(Stettin)の第2軍管区司令部の勤務に就いた。1925年からはドレスデン(Dresden)の第4軍管区司令部の参謀となる。
1927年2月に少佐に昇進、10月には第4歩兵指導者(Infanterieführer IV)司令部に勤務した後、1929年9月には兵務局の作戦部(T1部)へと異動となったが、この時、マンシュタインは編成部長のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)中佐の立てた動員計画の欠点を指摘して上官の許可を得て修正を実施する。カイテルは後にドイツ国防軍最高司令部(OKW)総長を務め、総統アドルフ・ヒトラーを側近くで補佐した人物(元帥)だが、しかしこの件の影響だろうか、マンシュタインとカイテルの間柄は終生、ぎこちなかったと云う。
その後、マンシュタインは中佐に昇進した後、1932年10月にコルベルク(Kolberg)に駐屯する第4歩兵連隊の猟兵大隊長となった。
そして1933年1月30日には、いよいよ国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首であるヒトラーがヒンデンブルク大統領より首相に任命されている。
この頃、コルベルクで大隊長を務めていたマンシュタインは、基本的にはヒトラーの首相就任を好感をもって迎えた様だ。即ち、ヒトラーのヴェルサイユ条約打破という主張は、当然ながらマンシュタイン等の軍人にとっては受け入れ易い考えであり、そして当時の多くのドイツ国民と同じく、何事も決まらず具体的な進展のない(と思われた)民主主義とされる政治体制よりも、強力に国家を率いる独裁的な指導者の登場を待望していたからとされる。
そして当時、陸軍部内ではマンシュタインはルートヴィヒ・アウグスト・テオドール・ベック(Ludwig August Theodor Beck)兵務局長=実質の参謀総長(中将、後に上級大将で退役。やがてヒトラー暗殺未遂事件の中心人物の一人となる軍人)に近い立場にあり、決してナチスに近づき恩恵を被る様なことはなかったが、それでも伝統あるドイツ陸軍の中でエリート軍人として昇進を重ねていき、1933年12月には大佐に昇進し、1934年2月には第3軍管区の参謀長に就任した。
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