【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (前) 〈3JKI07〉

だがマンシュタインが最初にナチスの政策に異を唱えたのは、1934年2月28日にドイツ陸軍(国防軍)が「アーリア条項」を受け入れた時である。

ときの国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg)上級大将(後に元帥)が導入を決めた「アーリア条項」とは、非アーリア人種であるユダヤ人を公務員から追放することが目的の「職業官吏再建法(de:Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums)」に関連してユダヤ人の定義を定めたものだったが、特にこの「アーリア条項」により困るのは軍の兵役問題であった。既に多くの非アーリア人種であるユダヤ人系の兵士が多く服務しており、その多くを追放すると兵員の確保、部隊の維持に多大なる影響が出てしまうのだ。

そこでマンシュタイン大佐はベック局長に建白書を提出、「アーリア条項」の導入に反対の建議を行った。但し、この時の建白書では、既に入隊しているユダヤ人を軍から排斥する事に反対した内容であり、新規の入隊を禁止することについては特に触れていなかったとされる。

だがこの行動に関して、ブロンベルク国防相は激怒し一旦はマンシュタインを処分しようとしたが、当時の陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner von Fritsch)砲兵大将(後に上級大将)の仲裁により事無きを得たとされる。

この件は、1935年3月16日にヴェルサイユ条約の破棄と徴兵制の復活が宣言されると、150万人ものユダヤ人とユダヤ人混血者を兵役対象外にしてしまうことに難色を示した軍部の声に対し、ヒトラーもそれに同意せざるを得ず、同年7月25日には「非アーリア人種の中でも第一級ユダヤ人混血と第二級ユダヤ人混血については、これまでの行動に政治的問題(左翼活動など)がなければ、ドイツ国防軍の兵役に服すことができる」と定めている。

 

更にマンシュタインは、1934年6月末から7月初めにかけて行われたナチスの粛清事件『長いナイフの夜(Nacht der langen Messer)』において、クルト・フォン・シュライヒャー(Kurt von Schleicher)名誉階級歩兵大将(前首相・陸軍中将)とフェルディナント・フォン・ブレドウ((Ferdinand von Bredow)少将が殺害された際にも、ヒトラーの行動に反発して上官のベックを通してブロンベルクに抗議を試みている。

この事件の際の、陸軍の将官であったシュライヒャーやブレドウに対する残虐な行為は多くの軍幹部に大きな衝撃を与え、陸軍(国防軍)を軽んじるナチスのやり方には激しく面目を潰されたと感じて大いに反発を持ったのだった。そしてナチスに協力的なブロンベルク国防相を“ゴムのライオン”と綽名するようになる。

 

こうした中でマンシュタインは、1935年7月には参謀本部の第一課長(作戦課長)に就任する。翌年の1936年10月には少将に昇進、そして1936年10月6日に参謀本部第1部長(作戦部長、事実上の参謀次長)となり、ベック参謀総長を強力に補佐した。この頃の彼は、いずれはベックの後継者として参謀総長となることが期待されたドイツ陸軍保守本流の優秀な将官と目されていた。

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三号突撃砲A型

因みに同じ頃、マンシュタインは歩兵支援用の兵器としての自走砲のコンセプトを固め、その開発を提案している。通常の戦車とは異なるこの兵器は、後に「突撃砲(Sturmgeschütz)」と命名され、被弾しにくい低車高に強力な砲を搭載し、大戦初期の電撃戦においては主に歩兵戦闘の支援を行い、敵の重火器拠点の制圧に威力を振るった。

また戦争が進むにつれて対戦車任務にも大活躍したが、本来は砲兵部隊所属のあくまで自走砲であった。やがては回転砲塔を有する通常の戦車(Panzerkampfwagen)の不足を補う目的で、一般の戦車部隊にも配属されるようになっていく。こうして突撃砲は第二次世界大戦で独軍が開発した兵器としては、最も成功した且つ安価な兵器の一つであったと評されている。

また余談ながら、その自走砲の技術的細目の決定を直接指導したのは参謀本部技術課にいたヴァルター・モーデル(Walter Model)大佐(後に元帥)だったとされ、これが後の「III号突撃砲」として採用されることになる。

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