【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (前) 〈3JKI07〉

さて、順調に出世の階段を登っていたかにみえたマンシュタインだが、1938年4月には『ブロンベルク=フリッチュ罷免事件』後の粛清人事により、シレジア(Schlesien)のリーグニッツ(Liegnitz)に駐留する第18歩兵師団の師団長に左遷されてしまった。

尚、この事件は1938年に起きたドイツ陸軍(国防軍)高級幹部の更迭事件で、国防相であるブロンベルク陸軍元帥と陸軍総司令官フリッチュ上級大将に関するスキャンダルが相次いで発覚して両者が罷免されたものであるが、この事件はヒトラーのハイリスクな外交・軍事政策に反対する陸軍の上層部を一掃する目的で実行されたナチスの謀略事件であったとされる。また、ヒトラー自身がこの謀略計画を知っていたかどうかについては定かではないが、その結果として彼が望んでいた自らが陸軍(国防軍)を完全にコントロール下に置くという状況が確実なものとなった。

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ヴィルヘルム・カイテル将軍

ところで、マンシュタインが巻き添えとなって左遷された理由としては、前述の様にナチスの政策に対する反対意見を上申した事例とともに、同年に設置された国防軍最高司令部(OKW)の総長に就任したカイテル将軍がマンシュタインを嫌って閑職に追い払おうとした為であるともされている。

こうしてマンシュタインは、長年の夢であった参謀総長への道を絶たれてしまった。後に彼は「参謀本部将校ならば誰もが願う最高の名誉ある地位。モルトケが、シュリーフェンが、ベックが務めた地位を継承するという夢が私から葬り去られてしまった」とその時の悔しさを語ったとされる。

この様な状況の下、ヒトラーの威圧的な外交政策に懐疑的であったベック参謀総長は、ナチスの方針に反発して1938年8月に参謀総長職の辞表を提出する。しかしベック派のマンシュタインもこの辞意には賛同せずに参謀総長職に留まる様にとベックを説得したが、結局、ベックは軍を去った(第1軍司令官へと異動した直後の同年10月に退役した)のだった。

 

しかしその後、ドイツ陸軍はマンシュタインの作戦立案の才能を放っては置かなかった。ポーランド侵攻に備えて、1939年8月18日に彼はゲルト・フォン・ルントシュテット(Gerd von Rundstedt)上級大将(後に元帥)が指揮する南方軍集団の参謀長に任命されたのである。そして、いよいよ第二次世界大戦が始まろうとしていた・・・。

 

次回は、第二次世界大戦 前半における独軍・上級将官としてのマンシュタインの活躍を描く。

-終-

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