《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -11》 七手組頭たち 〈25JKI28〉

七手組(ななてぐみ)とは、豊臣秀吉が創設した旗本衆の軍団。約1万の精鋭部隊を七つの組(各組の兵力は1,200~1,400名程度)に分けて、豊臣家一族の身辺警護や朝廷行事等の儀礼・式典への参加・警固などに用いた。

七手組頭はその頭/隊長のことで、七隊長・御馬廻七頭とも呼ばれている。彼らは大阪の陣の頃、秀吉を継いだ秀頼の直轄親衛隊を構成していたが、太閤往時に比べると、その軍事力は格段に劣っていたとされる。

今回は、既に紹介した速水守久や青木一重、伊東長次以外の七手組頭について簡単に紹介しよう。即ち、堀田盛高や中島氏種、真野助宗(後に子の真野頼包)に野々村幸成らである。併せて、松浦秀任や郡宗保にも触れたい。

 

堀田家家紋104 images
堀田氏家紋 堀田木瓜

堀田盛重

堀田盛重(ほった もりしげ)は、堀田正貞の長男とされるが生年は不明で、名は勝嘉とも。官名は図書介。『寛政重修諸家譜』では諱は正高とされており、法名は道空という。

盛重の堀田氏は始め斯波氏、後に織田氏に従属した尾張国中島郡堀田村の国人領主であったとされている。また、本姓は紀氏である八坂氏(紀姓堀田氏)ともされ、後述の真野氏と同様に尾張国の津島牛頭天王社(現、津島神社)の祠官・堀田俊重の末裔で堀田正泰の子孫とも。そうなると、後述の真野頼包と祖先同士が同僚だったことになるが・・・。

さて盛重は、本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉に臣従して馬廻衆として小田原征伐・朝鮮出兵等多くの合戦に従軍し、1万石を領した。

関ヶ原の合戦では石田三成の挙兵を徳川家康に知らせているが、結果、西軍に与し伏見城攻撃戦に加わっている。戦後、秀頼に仕えて以前と同様に1万石を賜った。

大坂の陣には七手組頭の一人として参戦、鴫野の戦いや天王寺・岡山での最終決戦にも出陣した。大坂城落城に際しては二の丸の石垣上で自刃したとされる・・・。

因みに、甥の子(姪孫)に堀田正盛がいる。盛重の甥である正吉は徳川の家臣となって700石取りの旗本となるが、大坂の陣で奮戦して千石に加増されたという。そしてその跡を継いだのが正盛であるが、継祖母の春日局の関係で3代将軍の徳川家光の近習に取り立てられ、以後、家光寵臣として大きく出世して、やがては老中にまでなった。

 

中島氏種

中島氏種(なかしま うじたね)、生年は不詳で、慶長20年5月7日(1615年6月3日)に自刃。七手組頭の一人で、官名は式部少輔。禄高は七手組頭の中では多く、2万1,712石であったとされる。

彼の祖先は、嵯峨天皇第十二子河原院(左大臣源融)の末裔であった嵯峨源氏。室町時代、尾張国中島郡中島村(現在の愛知県一宮市付近)を領し、中島城主で本居山城守源氏孝を名乗る。戦国中期以降、斯波氏や織田氏等の勢力に臣従し、氏種の頃には羽柴(豊臣)秀吉の家臣となる。

秀吉に従って各地を転戦、秀吉の死後は秀頼に仕えた。関ヶ原の合戦では石田三成の配下として戦うが敗れる。大坂夏の陣においては、遊軍として兵2千を率い奮戦するも、大阪城の落城を待たずに自害したとされる。

大阪の陣の後、氏種の一子は河内国茨田郡岡新町村(現在の大阪府枚方市)において帰農したとされる。江戸時代においては代々にわたり中島九右衛門と称し、近隣でも有数の豪農として有名であった。現代でも、中島家の家系を継ぐ一族が、枚方市や大東市に存続している。

また、幕末期の幕臣でペリー来航時の浦賀奉行所の与力であり、後に蝦夷共和国箱館奉行並・砲兵頭並として新政府軍と戦い千代ヶ岡陣屋で陣没した中島三郎助も、その先祖は氏種であるとされている。

更に、一族の一部は豊臣家の滅亡後、九州の筑後福島の辺りに移り住んだという。現在でも、福岡県八女郡や八女市吉田付近には中島家の血を引く一族が存在しているとされる。

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