《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -11》 七手組頭たち 〈25JKI28〉

真野助宗と頼包

真野助宗(まの すけむね)は、通称を右近丞や右近、または蔵人といい豊臣家七手組頭の一人。早くから羽柴(豊臣)秀吉に仕え、中国大返しの時には姫路城在番であったとされる。以降、小牧・長久手の戦いや小田原征伐、そして朝鮮出兵にも従軍し、1万石を領した。大坂の陣でも豊臣軍に属し大坂落城時に自害したとする説もあるが、夏の陣の前に亡くなっていたとの説もある。

助宗の父は不詳であるが、元亀元年(1570年)に織田勢に敗れた真野(現在の滋賀県大津市真野付近)城主の真野十郎左衛門元貞(元定)ではないか、との推測もある。とすれば、佐々木経方の六男行範に連なる乾氏の分かれである真野氏が彼の祖先ということになろうが、詳細は不明だ。

また六角氏に従った元貞は織田信長に攻められて城も落城。逃亡した元貞は、後に出家して西養坊宗誉と号し、後年、その子孫は真野地区に所領を持っていた徳川家旗本の神保氏の代官を勤めたとされる。しかも現在、この真野家の後裔の方々が同地区には居住しているという。

尚、秀頼生母の淀殿(茶々)の乳母の大蔵卿局(名は小袖、大野治長らの母)が助宗の娘もしくは姉妹だとする説があるが、(推定される)互いの年齢が近いことから娘ではなく、妹あたりの可能性が高いと考えられる・・・。そして浅井家の家臣であった大野定長と結婚した大蔵卿局が近江国出身であったことはほぼ間違いないので、やはり助宗の真野家は近江国が出自であったと思われるのだ。ちなみに、もう一人の淀殿乳母である饗庭局も、近江浅井家出身であり、浅井家(つまり茶々の実家)ゆかりの人々が淀君(茶々)の周りを固めていたのだ。

ところで、その助宗の子が頼包(よりかね)だが、本来は大橋長兵衛長将の子息で助宗の養子となったという説が有力。官名は豊後守。豊臣秀頼に仕え、大阪の陣の頃においては父・助宗の七手組頭の職を継ぎ3千石を拝領。弟は祖父江定翰であり、娘には青柳(木村重成の妻)がいる。

前述の通り、男子がいなかった真野助宗が、秀吉から1574年頃に長浜(今浜)城の普請奉行に任ぜられていた時の同僚の加藤作内光泰の重臣、大橋長兵衛の子を養子として迎えたとする説(『系図纂要』など)があり、筆者もこの説を支持するが、ここからがかなりややこしい。

それは頼包の生家である大橋氏の祖先は、尾張国の津島牛頭天王社(現、津島神社)祠官家筆頭の大橋氏に関係があるとされているが、その大橋氏(大橋修理大夫定元とされる)は後醍醐天皇の皇子の宗良親王の子、尹良王が吉野から下り来て津島の宮司家となった際に供奉して来た武家の中にいたのだが、この時、同行して来た他の武家には真野民部大輔道資の名が見え、以降、代々にわたり真野姓の祠官家も続いたのだった。

この込み入った関係性故か、真野親子の出自は共に尾張津島とされることが多いようだが、父と子は別の系統の真野氏である可能性もあるのだ。前述の様に父の助宗は近江の真野氏に連なり、養子の頼包は尾張津島の真野氏との関係が深いとも考えられる。もちろん、そういった諸々の事情を含んだ上で、頼包は助宗の養子となったのであろう。

尚、助宗の長浜城普請奉行の同僚には、他に藤堂高虎、青木一矩らがいたこともここでご記憶頂きたい。

さて頼包は、大坂冬の陣では惣構鰻谷橋を守備し、夏の陣では天王寺・岡山の決戦に参加、毛利勝永隊や大野治房隊の後方支援をしたが、敗戦必至の状況に伊木遠雄と刺し違えて自害したとも、生き永らえて戦後、藤堂高虎に1,200石で召抱えられたが、ほどなく病没したともされている。また異説には尾張藩徳川家に仕官したが、明暦元年(1655年)に亡くなったというものもある。

尚、伊木遠雄は、後述の伊木氏の一族で賤ヶ岳の戦いで活躍した秀吉の黄母衣衆の一人。大阪冬の陣では真田信繁の軍監を務め、夏の陣では道明寺の戦いで奮戦後、天王寺・岡山の決戦で討死した模様。

頼包の子孫に関しては、姫路藩池田家の筆頭家老、伊木忠繁の世話になったとの話も伝わるようだが、これは大阪の陣の敗戦前に、真野の一族(頼包の子とされる)が姫路に移ったことを指すが、これは頼包が池田輝政と懇意であった為か、もしくは上記の伊木遠雄などが橋渡しをしていたのかも知れない。

最近では、助宗と頼包の大阪の陣での自刃説に関しては「大坂七興衆の事。真野蔵人は御陣前病死、子豊後守は御陣後藤堂和泉守に仕ふ」(永夜茗談)などの史料に代表される、それを否定する考え方が有力となり、助宗は既に病没、そして戦後に頼包は藤堂高虎に仕えた、との可能性が非常に高いとされている。

また有名な逸話には、大坂冬の陣の直前、木村重成の器量を大いに評価した頼包は、自身の娘である青柳を重成の妻にと請うた。一心に戦場で清々しく散ることだけを考えていた重成は、この縁談を一度は断ったが、頼包の「我が娘は、夫を冥土に一人で行かせるような女子ではない」との言葉に感じ入り、考えを改めて青柳を妻に迎えたとされている。

そして一説には、頼包の言葉通りに青柳は、木村重成の出陣前夜に自害したとされる。しかし異説もあり、彼女は大坂城の落城後、近江国の蒲生郡馬淵庄に落ち延びて匿われ、重成の男子を出産した後に剃髪し、その翌年の重成の命日に自害したとも伝わる。その後、青柳の出産した男児は馬淵家の婿養子となり、馬淵源左衛門と名乗ったと伝えられている。

青柳が馬淵の地へと逃亡したのは、馬淵庄が佐々木氏系馬淵氏の領地であり、重成の祖先の木村氏が宇多源氏佐々木氏流で蒲生郡木村の地(馬淵の南東およそ5km)を根拠地としていたことから、同じ蒲生郡の縁戚を頼ったと考えられるのだ。また助宗の父祖の地である真野も同じ南近江にあり、馬淵庄の西方15km辺りで琵琶湖の対岸(西岸)に位置する。

更に、前述の通り頼包が大坂の陣の敗戦後に藤堂高虎に仕えたとすれば、養父のかつての同僚であり、藤堂家が真野氏と同じ近江国出身の家柄という縁故である可能性が高く、娘婿に木村長門守重成を選んだのも、木村氏が同じく南近江が出自であり、かつ佐々木氏所縁(ゆかり)の遠い同族ということからかも知れない。

 次のページへ》