《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -11》 七手組頭たち 〈25JKI28〉

野々村幸成

野々村幸成(ののむら ゆきなり)は、永禄4年(1561年)に生まれたとの説がある。野々村幸政の子とされ、名は吉安、雅治、吉保、雅春など。官名は伊予守であり、兄に野々村正成(幸久、正利とも)、弟には野々村豊前守がいる。男子には慶長17年(1612年)に病没した幸次が、娘には本陽院(仙石秀久の正室)がいる。

幸成は豊臣秀吉に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐で大いに功を挙げたという。その後、黄母衣衆となり、3千石を賜る。慶長3年(1598年)の秀吉死後は、豊臣秀頼に仕え七手組頭のひとりとなった。

大坂冬の陣では大坂城惣構森村口を守備する。翌年の夏の陣では、天王寺・岡山の決戦で遊軍として兵1,200ほどを率いて奮戦するも、大敗に際して退却。大坂落城時には二の丸から本丸への石垣上で自害したと伝わる。

 

松浦秀任

松浦秀任(まつうら ひでとう)は、名は久信とも。通称は安兵衛で、位階官名は従五位下、伊予守である。確かに七手組頭ではあったが関ヶ原の合戦に関連した大津城攻めで戦死した為、大阪の陣においては既に故人となっていた。つまり「大坂の陣の武将たち」の一人ではないが、七手組頭経験者として敢えて本稿では触れようと思う。但し、この人の足跡に関する史料は少ない。

和泉国和泉郡寺田村に拠った寺田氏の出身で、岸和田城主の松浦肥前守の家臣の寺田又右衛門、安大夫兄弟の従弟とされ、後に安大夫が肥前守を謀殺して岸和田城を乗っ取り、一族は松浦姓を名乗った。またこの時、寺田安兵衛も松浦久信と改名したと伝わる。

その後、この松浦一族は織田信長に下り、羽柴秀吉の軍に組み込まれた。やがて光秀を討った山崎の合戦で松浦久信は活躍。秀吉の馬廻に抜擢されて偏諱「秀」を賜り、名を秀任とした。

以降、豊臣秀吉に仕え、多くの戦に従軍。文禄の役では、秀吉の馬廻詰衆(名護屋城本丸広間番衆、七番組頭)として肥前国名護屋城に在陣した。文禄3年(1594年)の伏見城の普請にも加担しており、豊臣家の七手組頭として伊勢国井生(いう)にて1万石(最終的には1万1千石)を領した。

関ヶ原の合戦では西軍の一員として伏見城攻略に加わり、その後、立花宗茂らと大津城の戦いに参陣したが敵の銃弾を受けて戦死したとされる(『慶長見聞記』)。

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