《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -11》 七手組頭たち 〈25JKI28〉

郡宗保

郡宗保(こおり むねやす)も、七手組頭であったとしている史料もあるようだが、大坂の陣では旗奉行を務めていた。しかしついでに、この稿では彼にも触れてみたい。大阪の陣での豊臣譜代の武士たちの多くには、若さ故の未熟さや暴走が目立つが、宗保は老将としての気骨を示した数少ない一人だからである・・・。

彼は天文15年(1546年)生まれで伊丹親保の子とされ、名は良列・良保とも伝わり、通称は主馬助(主馬)。妹に加藤重徳の室、餘田重政の室らがおり、娘には細川忠興の側室である藤(松の丸)、明智光秀の家臣・木村伊勢守の妻で後に三淵光行の室となった慶寿院らがいる。

またこの宗保四女の慶寿院は、木村伊勢守に嫁した時、萱野弥三左衛門長政(豊臣家臣)の子を引き取ったが、後にこの男子が郡正太夫慶成として黒田家に仕官する。更に、再嫁した三淵光行との間に生まれた次男が郡藤正を名乗ったとされる。

さて、宗保は当初は荒木村重に仕えたが、彼が没落すると羽柴(豊臣)秀吉に馬廻として仕官し、摂津国中村郡や美濃国可児郡他で3千石を領した。

天正18年(1590年)の小田原征伐では、片桐且元らと共に上野国東部の諸城を攻めた。朝鮮の役では肥前国名護屋において諸将の兵糧船調査や管理を務めた。秀吉亡き後の関ヶ原の合戦では西軍に属して大津城の戦いに参加している。

その後も秀頼に仕え、諸大名との音信を欠かさなかった(『郡文書』)。大坂の陣では七手組頭ではなく、旗奉行を務めた。冬の陣の講和においては、慶長19年12月21日に豊臣方代表として木村重成と共に徳川秀忠の陣へ講和の誓紙を受け取る役目に赴いてもいる。

夏の陣においては、天王寺・岡山の決戦での敗北を受けて一旦はその場で自刃しようとしたが、旗奉行として携えていた軍旗を敵方の雑兵に奪われることを潔しとせずに城に引き返して自害したとされる。

この自害の場面、『難波戦記』では以下の様に描写されているが、あくまでも講談の世界と受け止めて欲しい。

天王寺・岡山での最終決戦で奮戦した後に退却して来た宗保は、大阪城内の千畳敷広間で大野治長と会い、「今はこれまでと旗と幌をお返しします。私は天王寺で討死するところを、預かった旗や幌を敵の雑兵に渡すのは口惜しいと思って逃げてきたのです。その事情を知らない敵・味方の者から、『七十(歳)余りの主馬助が、いつまで命を惜しむのか!?』 と笑われるのが恥ずかしいのです・・・」と言うと、旗と幌を床に置いて、上帯(うわおび)を押し切って鎧を脱ぎ捨てた。そして従う郎党を招いて「この短刀で介錯してくれ。また、思うところがあるから、この短刀を黒田長政殿に届けてくれ」と言い含めて、腹を十文字に切り捌いて見事切腹・自害したという。
どこまでが現実の話かは疑われるが、この後、前述の通り、宗保ゆかりの者が筑前黒田家に仕えているので、郡宗保と黒田孝高(如水)・長政親子とは生前より親しき間柄であったのだろう。殊に官兵衛とは、播磨討伐戦の頃からの永い付合いだっただろうことは、想像に難くないが・・・。

-終-

 

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