2014年6月6日から連載を開始した、この【ノルマンディー上陸作戦70周年記念】 『6月6日Dデー』の記事も、当初は3~4ケ月で終了する予定であったが、半年経ち、1年が経過し、とうとう2016年の6月6日を迎えてしまった・・・。
足掛け2年にわたり連載を続け、なんと+2年で【72周年記念!!】となってしまったのであるが、ようやく、(一応の?)最終回を迎えることとなり、辛抱強く続編をお待ち頂いた読者の皆様に対しては感謝に堪えない。深く御礼を申し上げる。
さて、それでは早速、(既述の内容との重複も多いが)上陸作戦当日の独軍の行動を見ていこう。
独軍側においては、1944年6月5日~6日のフランス北西部の天気予報は悪天候と予想されており、このために多くの将官が担当の持ち場を離れていた・・・。
B軍集団に属する第7軍の司令官であったフリードリッヒ・ドールマン上級大将(6月28日病死。自殺説もあり)は、5日から他の第7軍高級将校を伴い、机上演習の為にレンヌ(カーンの南西約100km)に移動していた。この為、第7軍に所属する各部隊の上級指揮官の多くが自らの司令部を離れていたことで、この(オマハ・ビーチからユタ・ビーチにかけての)地域における初動の反撃対応に不備が生じたのだ。
そしてフランス北西岸一帯の防衛指揮の要、B軍集団の司令官エルヴィン・ロンメル元帥も、6月6日には妻の誕生日を祝うためにドイツ本国に戻っていたことは既に述べた通りである(ヒトラーにSS装甲師団の指揮権の委譲を求めるためだったとも伝わる)。
また連合軍の空挺部隊が行動を開始した時間帯(6日の00:30時から02:30時頃にかけて)については、当然ながら、ルントシュテット元帥もロンメル元帥も、またハンス・シュパイデルB軍集団参謀長(中将)や国防軍最高司令部(OKW)作戦局長/統帥部長のアルフレート・ヨードル上級大将、そしてヒトラー総統も就寝中であった。
連合軍の作戦は着実に進行していたにも関わらず、未だ独軍側の情報収集は混迷を極めていた。悪天候や偵察機の不足、錯綜した指揮命令系統などの多くの原因が重なり、幾つか設置されていたレーダーも一つを除き連合軍の妨害(航空機から投下された妨害片)により機能していなかったし、唯一の実働レーダーからの報告も「ドーバー海峡付近、異常なし」というものだった。
英米の空挺部隊が降下を開始し、少々の小競り合いが接触した地元の独軍との間で始まった最初の2時間は、情報は錯綜し不明確であり、時には互いに矛盾していた。そしてその報告の多くは「詳細不明」とされ、上級部隊には報告されなかった。
02:15時、第716歩兵師団のヴィルヘルム・リヒター少将からの電話連絡で連合軍空挺部隊の降下を知った第84軍団長のエーリッヒ・マルクス将軍(砲兵大将、6月12日空爆により戦死)は、第7軍参謀長のマックス・ベムゼル少将に連絡して「防衛準備態勢」に入るように要請した。ベムゼルは急ぎドールマン司令官に連絡する共に第7軍に警戒態勢を敷き、またB軍集団参謀長のシュパイデルにも状況の説明を行った(02:25時頃とされる)。ちなみに、サン・ローの第84軍団司令部では昨夜(5日夜)はマルクス将軍のささやかな誕生日パーティーが開かれていたのだが・・・。