さて、独陸軍部隊は既述の通り、連合軍が上陸を敢行したノルマンディーの海岸地区には第352や第711、そして第716の各歩兵師団が展開していた。またエドガー・フォイヒティンガー将軍(少将、この人物は前線の部隊指揮官としては大変無能で、後に軍法会議にかけられる。また戦後にはソ連のスパイ活動に加担)が率いる新設の第21装甲師団と親衛隊のフリッツ・ヴィット少将が率いる第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」とが、連合軍の上陸作戦に対して早期に有効な反撃が可能な位置に存在する数少ない機甲部隊であった。
独軍西方総軍司令部は、ノルマンディーへの上陸は主攻撃ではなく、あくまでも牽制作戦であるという考えを捨てきれずにいたが、それでも現実的な対応策として、オルヌ川東方の内陸部に配置されていた第12SS装甲師団と、カーンの南東約150kmに駐屯していた装甲教導師団の緊急出動をOKWに依頼した。
これにより、ようやくヒトラーの承認を受けたOKWは15:40時頃になり当該の装甲師団の出動を許可する。しかし彼らは連合軍の空爆により行く手を阻まれて、思うように進軍出来なかった。
しかも第12SS装甲師団は、上級司令部の混乱した指令から各部隊が誤った地点に分散してしまい、主力がカーンに到着出来たのは7日の早朝となった。しかしこの第12SS装甲師団は、翌7日には連合軍の戦車28両を撃破、その後、カーン西方のカルピケ飛行場付近に展開した同師団は、カーンとバイユーを結ぶ街道上で主にカナダ軍を迎え撃ち、甚大な損害を与えてカーン方面への英連邦軍の前進を一時的に停止させた。彼らの攻撃参加がいま少し早ければ、この方面の戦況は大きく異なったものとなったであろう。
ちなみに、その後、同師団の指揮官ヴィット少将は、6月14日に艦砲射撃の直撃を受け即死する。(ヴィットの後任は、かの「パンツァー・マイヤー」ことクルト・マイヤー第25SS装甲擲弾兵連隊長が引き継ぎ奮戦するが、9月には米軍の捕虜となる)
また装甲教導師団に至っては、6日の夕方(午後5時ごろ)に移動を開始したが、翌7日の朝になっても、未だカーンからは50km以上も離れていた。
その頃、連合軍部隊と最も近接していた第21装甲師団は、英軍第6空挺師団の諸部隊との激闘を繰り広げながらも、前編(7)で触れた様にソード・ビーチとジュノー・ビーチの間の地帯へ向けて反撃を実施、一部の部隊(第192装甲擲弾兵連隊第1大隊)が海岸への到達に成功した。しかし連合軍の強固な抵抗に遭遇し、後続・支援の無い彼らは、敵に逆包囲されてしまうという恐れから6日の終わりまでには撤退を開始してしまう。またこれを支援する立場の同師団第22戦車連隊も、側面を英軍第3歩兵師団の第185歩兵旅団などに激しく攻撃された為、後退を余儀なくされた。
そして、当初から沿岸地帯に配置されていた独軍防衛部隊は、訓練不足や補給物資の欠如に苦しみ、空爆によりその抵抗力は弱体化していた。唯一の例外は、ロンメルによってサン・ローからオマハ・ビーチ方面へ移動させられた第352歩兵師団であったが、(多少なりとも練度が高くとも)歩兵中心の機動力や打撃力に欠ける拠点防衛部隊では、連合軍の圧倒的な物量に対抗する術は無かった。
この日の独軍は結局のところ、機甲兵力などの増援は極わずかの状態で、海岸防衛の守備部隊だけで連合軍の攻勢に立ち向かうこととなったのである・・・。
またその後も、連合軍の仕掛けた欺瞞作戦に騙され続けた独軍上層部は、かなりの間にわたりノルマンディーへの上陸はカレー方面への上陸作戦の陽動ではないかと疑い続け、カレー方面からの兵力を移動させるタイミングを逸してしまうのだった。