「寺子屋」とは、安土桃山時代の末期から江戸時代において、庶民の子弟に読み・書きや算盤(そろばん)もしくは簡単な計算法や初歩的な道徳教育など行った私設の民間教育機関である。「手習所」や「手習塾」とも言われるが、「寺子屋」という呼び方は主に上方(京都・大坂地区や伊勢地方など)で用いられ、江戸周辺では「手習指南所」・「手跡指南」等と称されていたとも伝わるが、本稿では便宜上、すべてを「寺子屋」として記述することとしたい。
また、この制度は一般庶民(農民や職人・商人などの町人と一部の浪人中の武士階級の子弟)に向けたものであり、武士の為の教育機関(学問所・藩校等)の様に、武芸とともに和漢・東洋の古典などによる高尚・高等な学問を授けるものではなく、江戸時代後期に林立した蘭学をベースとした医学や兵学等を教授する専門的な私塾などとも異なり、庶民の日常生活に必要な実践的で実用に供する初等教育を行なう教育施設であった。
この様な「寺子屋」に代表される民間教育機関の普及により、江戸時代末期の我国での識字率は凡そ50%にも達していたといわれる。これは同時代(江戸時代後半ないし明治初期)における世界の最高水準の識字率である。ちなみに、我国の江戸時代・嘉永年間(1850年頃)の就学率は70~86%といわれており、同じ時期のイギリスの主な工業都市でも約20~25%(1837年)、フランスではわずかに1.4%(1793年)、ロシア帝政時代のモスクワでは約20%(1850年)などと、諸外国に比べて格段に就学率が高かったのである。そしてこれが、明治維新後の文明開化期に、一挙に西洋文明に追いつく日本人の知的な底力を形作った一因であった。
尚、本稿では、武士の教育を行った官制の学校(学問所など)や藩校、著名な私塾などではなく、主に都市部で一般の町人などに向けて開設されていた「寺子屋」について述べていこうと思うが、武士の教育機関については改めて別稿で取り上げたいと考えている・・・。
※武家の中心地である江戸では、民間とはいえ教育機関に商いを営む「屋」号をつけるのを避けて、その標札には「手習指南」・「手跡指南」・「筆道指南」や「手習指南所」・「幼童筆学所」と掲げたという説がある。また「寺子屋」の師匠は商家の主より社会的地位が高いとの自負心から、自らの職業に「屋」がつくことを嫌ったとも考えられている。
※上記に記載したイギリス・フランス・ロシアでの就学率の数値は、1874年に日本を訪れたロシアの語学教師で日本史研究家のレフ・イリイッチ・メーチニコフ(Лев Ильич Мечников)がその著書『回想の明治維新』の中で記述しているものである。
※識字率に関しては、嘉永年間(1848年~1854年)での江戸府内全域では70%から80%で農村部を除くと90%という推測結果もあり、かなりの高水準である。また当然ながら武家階級では、ほぼ100%と云われている。幕末では全国平均で男性が40%~51%、女性は15%~21%であったとの研究結果もある。
「寺子屋」の起源・成り立ち
「寺子屋」の起源は、鎌倉時代に寺院で僧侶が檀家の子弟の為の教育を行ったことが始まりとされている。だから「寺子屋」の名称の由来は、文字通り寺院なのである。この為に学徒のことは「寺子」といい、入学することは「寺入り」・「寺上がり」といった。但し、既述の通り本来は「寺子屋」とは上方での呼び方なので、江戸方面では教師を「手習師匠」と呼び、通学している児童を「手習い子」・「筆子(ふでこ)」と呼んだとされる。
やがて室町時代から安土桃山時代の末期にかけて、「寺子屋」は徐々に発達していくが、最初の頃の学習内容は手紙の書き方や帳面の付け方などであり、そしてその為に必要な文字の読み書きの学習が中心であった。つまり「寺子屋」は、まさしく「手蹟指南」もしくは「幼童筆学所」であったのである。また初めの頃は、「寺子屋」は主に商人や職人の子供を対象としたものだった様だが、やがてより広く多くの庶民の子弟を対象とした教育機関として「寺子屋」は変貌していった。
その後、江戸時代に入ると、僧侶・村役人・裕福な町人などに加えて武士階級の者による経営・教授が進み、読み・書き・算盤などの日常生活に役立つ教科を教え、更に道徳の初等教育を施したとされる。江戸時代中期(18世紀)以降には増加傾向が増し、やがて江戸時代・天保期(1830年~1844年)頃からその数は急増した。こうして、江戸時代の末期(1850年頃~1970年頃)には全国で15,000~16,000ヶ所以上も存在したとされている。
※享保6年(1721年)には江戸府内の「寺子屋」の師匠数は約800人であったとの史料があるが、この時期以降、宝暦年間(1751年~1764年)頃から急速に増加傾向が始まったと見てよい。
※幕末の安政から慶応にかけての14年間には、毎年々間で300ヶ所を越える新規の「寺子屋」が開業している。更に江戸だけでも大規模なものが400~500ヶ所、小規模なものも含めれば1,000~1,300ヶ所程度は存在したとの記録もある。
本来、庶民にとっての「寺子屋」の成立背景には、一部の慈善的な動機もあっただろうが、その大多数は経済的な要請から生まれたものであるとされる。それは、当時の親が我が子に家業などを継がせたり、独立して一人前の生計を立てさせる為には、その職業に必要な訓練・学習を施さなければならなかったが、庶民の多くの親は自らの家業に携わることで手一杯であり、自身の子に対する教育に充分な時間や費用を割く余裕は無かった。そこでその様な基礎的な職業訓練を、専門的に担当する教師に安価で委託するという仕組みが望まれたのである。またその運営形態には、篤志家の慈善的運営も含めて協同出資的な運営や生計補填的な運営等が存在した。
※慈善的運営とは、教師の自発的な善意・使命感に基づくものであり、このタイプは農村に多く教師役は僧侶や医者、もしくは裕福な豪農や村役人などであった。第二の形態は、特定の組織・共同体が協同の事業として資金を集め、掛かる経費を提供して教師を招聘する形である。そして最も多かったのが第三の運営形態であり、教師個人の生計手段としての「寺子屋」経営である。何らかの身体障害を持った有識者等が、公然たる生計補填の手段として教師となることも多かった様だ。但し、いずれの形態にせよ、「寺子屋」経営で得ることの出来た収入は非常に少なかったことに変わりはない。
一方、教師となる側の人間にとっては、その仕事で得た収入をある程度は生活の補助としながらも、「寺子屋」の教師が人別帳に「手跡指南」などの知的職業として登録されることや、教え子やその親には師匠として敬われ、地域においては知識人・有識者として尊敬されるという精神的価値に充足感を見出す人々が多数いたであろうことにも注目するべきであり、これがある意味、その成立を支えたもう一つの要因であろう。
要約すると、上記が「寺子屋」の主な成立要因であり、それ故に「寺子屋」では、読み・書き・算盤の手習いに加え、当時の封建社会で庶民が生きていくのに必要な基礎的な知識、処世の知恵など、極めて実践的な職業教育が実行されたのである。
※教師の地位は、現代でも同じく尊敬されるべきものであるが、最近ではその存在価値の低下が著しく喧伝されている。但しこれには、教師の側の責任も、教わる学生・生徒の側の責任も、更には親や周辺社会の責任も複雑に絡み合っていると考えられ、江戸時代の様に単純には割り切れない・・・。
戦国乱世が終り太平の世を迎えた江戸時代では、商工業の発展や文書主義などにより、それらに対応した実務教育の需要が高まり、先ず江戸や上方の諸都市で「寺子屋」が発展して行く。1690年代以降になると、地方の農漁村部へも広がりを見せ始めた。
この「寺子屋」がほぼその後の形となったのは、徳川幕府・5代将軍の綱吉が官学を興し、その後の8代将軍・吉宗が「寺子屋」を保護して奨励したことによる。そして以降は急速に全国津々浦々に普及し、多くの「寺子屋」が庶民の教育施設としての活動に従事したのだった。だが国を統治する幕府の側には、「寺子屋」をもって為す民衆教育に関して明確な目的意識があった。
享保5年(1720年)には、前述の通り徳川吉宗により「寺子屋」への助成事業が開始された。この時、幕府は江戸町奉行 大岡越前を通して「弟子共へ行儀作法宣敷相成様、教諭油断なく心掛候様」と下命したのであり、併せて、現代における「学習指導要領」と同じ意味合いの高札文を下附した。
そして享保7年(1722年)には、『六諭衍義(りくゆえんぎ)』を室鳩巣が和訳した『六諭衍義大意』が配られた。こうしてこれ以降の「寺子屋」は、不揃いで統一性の無い教育方針のもとで単に読み・書き・算盤などを教えていた身勝手な私塾から、当時の幕府が定めた一定の社会規範・教育方針に基づいた道徳律を世の子供たちに教える教場組織へと脱皮したのである。
※『六諭(りくゆ)』とは、「父母に孝順なれ。長上を尊敬せよ。郷里に和睦せよ。子孫を教訓せよ。各々生理(=職業)に安んぜよ。非為(=非行)を作(な)すなかれ」という中国・明の洪武帝が1397年に発布した六つの訓戒・教訓。中国では明・清を通じて民衆教化に用いられた。
※『六諭衍義(りくゆえんぎ)』とは『六諭』の解説書で、范鋐が康煕年間(中国、清の時代1662年~1722年)に著したとされる。後年、我国の『教育勅語』にも影響を与えたとされる。
その後の「寺子屋」は、維新後の明治5年に学制が成立し公立の小学校が普及するまで続いた。また明治維新直後は、江戸期以来の「寺子屋」の教師たちから仮教員として採用された後に、教員講習所で講習を受ければ正規の教員となることが可能であった時期もある。更に、大規模な「寺子屋」はそのまま私立の代用小学校として存続したり、初期の公立小学校として使用されたものもあったという。