【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態 第1回 〈25JKI00〉

「寺子屋」の形態・様子と教授法

江戸時代も中盤以降になると「寺子屋」の師匠には幅広い階層・職業の人々が就いた。幕臣や諸藩士、もしくは浪人中の者なども含めた武士階級の師匠が多かったが、医家や書家、そして昔ながらの僧侶や神職、更には村・町役人やその他の裕福な町人階級の者など様々な身分の者が教鞭をとった。この中には別に本職を有する兼・内職の者もいたが、次第に「寺子屋」の師匠が本職・専業である者が増えていった。また、婦人が師匠となるケースも見られたという。

一寸子花里 作の『文学万代の宝(始の巻・末の巻)』 男女別の「寺子屋」の風景

教場は特に改まった校舎・施設などは用いられずに、主に寺社や師匠の自邸・自宅が使用されたが、それなりの環境・設備を有する裕福な「寺子屋」もあれば、逆に浪人師匠の場合などは長屋の一室が教室に使われることもあった様だ。

「寺子屋」の具体的な授業の進め方は、各々の生徒の学習目標がバラバラであり学ぶ内容も異なっている為に、その「寺子屋」全体で生徒が何人いようが師匠は各生徒に対して個別指導で接し、ひとりひとりが独自のプログラムに沿った形で学んでいだ。同じ時間帯に教場に集まっていても、生徒たちは其々自分の目的に合わせた教材(後述)を使用して、各自の目標に向けて勉学したのである。

例えば「手習い」の具体的な進め方でいうと、各人がその修得レベルに合わせて個別に指導を受けており、師匠は頃合を見て特定の生徒を呼び出し、その生徒は師匠の机の前に進み出て清書を行い、その場で指導(朱筆を加えたり、運筆の順序、言葉の意味や内容を教えた)を受けて、その後、再び自分の机に向かい自習するといった形式であった。しかも師匠は自身の教職経験に基づき、個々の生徒の年齢や学習の進度、その性格、家業などに応じて手本の内容を変えるなど肌理細かな配慮を行いながら指導したと云う。

また、個別指導の対極にあたる一斉指導は非常に少なく、多くの場合は掛け算「九九」の唱和などの音読による発声練習・記憶法等の場合だけで、通常は素読(読み方)練習も個人教授で施された。但し、その日の日課の最後には、多くの「寺子屋」では師匠の発声のもと一斉音読(斉読)が行われていたとの話もある。

※師匠1人では対応が困難な場合には、兄弟子などが助教となって下級生の指導に当たることも普通にみられた。

※手習いの指導の時、師匠は「倒書」といって、逆さまに文字を書いてやらなければならない。こうすれば生徒の側からは正しい姿の文字が判読できるからだが、その為に「倒書」の技術に熟達しなければ一人前の「寺子屋」の師匠とはいえなかった。

一般的には生徒たちは教師に相対して机を並べたとされるが、原則は自由配置であり、机は一人机を使用することもあったが長机に複数人が並んで学ぶ場合も多かった。通常は20~30人の生徒を1人の教師が担当したが、稀に師匠独りで50人や100人の世話をしていた忙しい「寺子屋」もあったという。

通常の場合、生徒は年齢の違う子供たちが一緒になって授業を受けていた。しかしこれは上記の様に、マンツーマンが原則であるから特に問題は生じなかった。そして庶民向けの「寺子屋」では男女共学の形態が普通であったが、一般に武家の子弟を対象としたものは男女別々であった。また、武家屋敷勤めの経験がある教養豊かな婦人などが教師となった、女子限定の授業も相当数あったとされる。

江戸の周辺地区の場合は、朝の五つ時(午前8時頃)から正午まで学び、一旦帰宅して昼食を摂り(時には弁当を持参)、午後再び教場にて学習して八つ時(午後2時頃)に帰宅した。昼食を摂らずに八つ時まで授業を継続する「寺子屋」もあった様で、この場合は自宅に戻ってから食べる軽い食事を「お八つ」と言い、現在の“おやつ(間食)”の由来となっている(異説あり)。

また生徒は個別のカリキュラムの為、全ての授業時間に他の生徒と共に出席する必要はなく、自分の都合に合わせて、例えば冠婚葬祭、家業繁忙、地域行事や他の稽古事への参加などに合わせて欠席や途中下校することが可能であった。休日は毎月の1日、15日、25日と五節句、年末年始(12月17日から1月16日)は休みであるが、具体的には概ね師匠の自由裁量であった。

※一般的には午後になると出席率が70%くらいとなり、これは家業を手伝う為に帰宅したり、女子が琴や三味線などの稽古事に行く為であった。そこで午前中は手習いの個人指導が中心、午後は算法や礼法などの授業が多くなったとされる。

※上記以外の休日には、2月初午(初午の休み)、3月2、3、4日(上巳の節句休み)、5月4、5、6日(端午の節句休み)、7月6、7日(七夕の節句休み)、7月13~16日(盆休)、9月8、9日(重用の節句休み)などがあった。

授業中には休憩時間はなく、年少の子供を中心に集中力が持続せずに、特に男の子などでは退屈して直ぐに悪戯を始める子が多かった様で、指導する教師は随分と生徒の指導・統制に苦労したとされる。悪戯者や御喋りばかりしている子供には、罰として立たせたり鞭打ったりもしたが、左手に線香を右手に水を湛えた茶椀を持たせて机の上に正座をさせるという罰もあったそうだ。

「寺子屋」の授業が終了した後の過ごし方は自由だったが、別途の習い事に通う子供たちもかなり居た様であり、勉学に追われる子供たちも忙しかったが、江戸時代の親たちも現代に劣らず大変教育熱心であった様だ。

※児童向けの授業が終わった後の時間帯に、大人の希望者にも勉学を授けた「寺子屋」もあったとされる。

 

「寺子屋」と私塾の違い

さて本稿の最後で触れておきたいのは、「寺子屋」とその他の私塾との違いについてである。江戸時代の公立の教育機関には、武士の子弟の為の幕府の学問所や各藩の藩校、そして庶民も対象とした半官半民の郷学などがあったことは別稿で詳しく解説したいと思うが、民間の教育機関としては本稿の主役である「寺子屋」と共に私塾と言われるものが存在した。

この場合の私塾とは、専門の技術・知識や高い見識を有した人物のもとに、その教えを請う人々が集まる内に学校形式となったもので、基本的には「寺子屋」とは異なって10代後半から成人の者が入門する民間の教育機関であった。

教師となる人の専門分野によりこの私塾で教える内容は様々であり、儒学を教える私塾もあれば、漢学や国学、また江戸時代も後期・幕末になるとオランダ語をベースにして西欧の医学や兵学を中心にした西欧文化・文明(蘭学)を教える等、色々な私塾が見られた。私塾は塾の主宰者である教師ありきの性格が強く、大変、高度な教育を施したが、庶民でも入学が可能ではあった。但し、入学時に学力テスト等を施す場合も多かったとされる。

また民間の塾(以下、本稿では便宜上“芸事塾”と表現する)には、単一の芸事、例えば茶道ならば茶道、華道なら華道だけを教えるものも多くあり、算盤(そろばん)塾などもその一つである。「寺子屋」が読み・書き・算盤に他の芸事も取り込んで、道徳・倫理教育も行う一種の総合的な民間初等教育機関であるとしたら、芸事塾は単科の専門学校の位置付けであろう。そしてこれらの芸事塾には、子供たちの弟子もいれば成人の弟子も存在した。

※私塾とは別に“家塾”という言葉があるが、これは江戸時代の「寺子屋」が明治期に名称を改めたもので、その内容には基本的には変化がなかったとする説(小木新造『庶民教育の開花~寺子屋から私立小学校へ~』など)があるが、この説明は誤りであろうと思う。日本語版のWikipediaによれば、「…学者や知識人が自分の自宅で個人的に教えたもので、既に日本では平安時代から大学寮などで教える学者が自宅で別途弟子を採ったものを、家塾と呼んだ…」とされているが、他の文献・資料でも私塾との違いを明確に定義したものは見当たらない。

結論としては、「寺子屋」は庶民の子供たちに向けた小・中学校といった感じで、私塾は高等な学問を教授する単科・専科大学/大学院の様なものであり、芸事塾は幅広く誰でも入門可能な諸芸の専門学校であると考えれば良いだろう。

 

次回の第2回では、「寺子屋」での具体的な教育内容や使用された教材などについての解説を試みる。興味・関心のある方には、引き続きの閲読を願うものである・・・。

-終-

 

【余談-1】 幕府が設立した昌平坂学問所において、享保2年(1717年)から毎日東舎で開講されていた仰高門日講(ぎょうこうもんにつこう)は身分を問わず広く庶民にも開放されており、その講義は朝9時から正午まで行われていた。一年間通い続けて皆勤賞を取れば、講師からお褒めの言葉を頂いたそうである。

歌川広重 作の『諸芸稽古図会』 部分 右手に線香を持って罰を受けている子供が描かれている

【余談-2】 一説によると、江戸期の日本における庶民教育の場「寺子屋」では、本人の自覚とやる気を促す“待ち”の教育が主流だったと云う。

意外に思うかもしれないが「寺子屋」では体罰の文化はそれほど発達していなかったとされる。悪いことをしたからといって極度に重い体罰を与えたり、覚えの悪い者に対してビシビシと厳しく教鞭を振るうのではなく、教師の側が忍耐を見せながら、ずっと本人の出方を待つ教育だったのである。(右図の線香と水の入った椀を持って正座をさせる罰「捧満(ほうまん)」にしても、あの線香は熱で熱いのではなく、時間を測る為の道具なだけであった・・・)

しかし、もちろん「寺子屋」が義務教育ではなく非公式の私塾であることに加えて、その学習の成果に関してはあくまで本人とその親次第であったことが大きいのだろう。すなわち「寺子屋」は選択肢が広く緩やかな“庶民”の為の学校であり、エリート向けの教育機関ではないのである。

歌川広重 画 『広重戯画』より“寺子屋遊び”  師匠に悪戯をする寺子を描いた木版浮世絵

これに対して、ヨーロッパにおける伝統社会は体罰に寛容などころかむしろ積極的であり、子供どもに対する知識教育や道徳教育・躾に関しても強制注入のスタイルであり、ほとんどの初・中等学校は調教型エリート教育の場であって、我国の「寺子屋」型の教育思想とは根本的に異なっていたのではないだろうか・・・。

だが我国の庶民・児童教育も、明治維新後には西洋文明を取り入れる過程で徐々に西洋の強制・叱る型教育に変貌してしまった。

この点に関しては、宗教観や社会環境などの様々な違いがあるのだろうが、果たしてどちらが児童教育として正しいのか、より有効なのかは判断が難しいところである。だがこの「寺子屋」教育には、精神的な“ゆとり”と失敗に寛容な社会風土が感じられた。但し、少し前に実施された、所謂(いわゆる)「ゆとり教育」は決してかつての「寺子屋」の“ゆとり”ある教育とは異なるものだと思うのは筆者だけであろうか・・・!?。

 

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