イットン調査団の【三大〇〇調査会】、今回は書道史にまつわる三大ネタをいくつかご紹介しま~す!!
それでは先ず最初に、「三跡(蹟)」から‥‥。
歴史上、書道の達人三人のことを「三跡(蹟)」といいます。同じく書の名人が名を連ねる「三筆」は各年代毎に選ばれていますが、「三跡」は小野道風(野跡)、藤原佐理(佐跡)、藤原行成(権跡)の3人が選ばれた平安時代中期の1回のみです。始めは「三賢」(『入木抄』)と称されましたが、『合類節用集』以降では「三跡」と表現されました。
日本の書道史上の能書の内でも大いに優れた3人の並称であり、「三跡」は後世の我国書道界に大きな影響を与えとされています。また仮名(かな)の出現したこの時代、彼らにより我国の書道は和様化され、和様書の完成期を迎えるのです。
※小野道風は、寛平6年(894年)に誕生し康保3年12月27日(967年2月9日)に亡くなったとされる平安時代の公家(貴族)。小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の息子です。官位は正四位下・内蔵頭で、能書として高い名声を得ていました。尚、「蛙と柳」の逸話が有名。
※藤原佐理は、生誕が天慶7年(944年)で、没年が長徳4年7月25日(998年8月19日)とされる平安時代中期の公卿(従三位以上の高官)。太政大臣・藤原実頼の孫で左近衛少将・藤原敦敏の長男です。最高官位は、前参議、正三位兵部卿でした。草書の第一人者として評価が高い彼の書は、美しく流麗で躍動感があるとされますが、人物はいい加減な性格で酒癖が悪く、いつも金欠だった伝わります。
※藤原行成は、天禄3年(972年)に誕生し万寿4年12月4日(1028年1月3日)に亡くなりました。平安時代中期の高級公家で、祖父は摂政・太政大臣 藤原伊尹、父は右少将・藤原義孝です。官位は正二位・権大納言にまで昇った能吏であり、書は世尊寺流の祖として有名。和様書道の確立に尽力した彼の書は、大変優雅なものと評価されています。
次に「三筆」ですが、平安時代初期の嵯峨天皇と橘逸勢に弘法大師(空海)を加えた3人が書の名人として初代「三筆」と呼ばれています(『和漢名数』や『合類節用集』などによる)。また彼らは、『江談抄』では大内裏の門額の筆者として称賛されています。更に、単に「三筆」と云う場合はこの3人を指します。
※嵯峨天皇は、延暦5年9月7日(786年10月3日)に誕生され承和9年7月15日(842年8月24日)に崩御された第52代天皇で、桓武天皇の第二皇子でした。歴代の天皇には能書家が多いのですが、その筆頭格としても著名です。
※弘仁9年(818年)、嵯峨天皇は大内裏の門額を新たに(唐風に)書き直すこととして、自身は東の三門(陽明門・待賢門・郁芳門)を、また弘法大師には南の三門(皇嘉門・朱雀門・美福門)を依頼、北の三門(安嘉門・偉鍳門・達智門)は橘逸勢に命じて書かせることにしました。
※平安宮の外郭には、朱雀門、皇嘉門、談天門、藻壁門、殷富門、安嘉門、偉鑒門、達智門、陽明門、待賢門、郁芳門、美福門の12門があります。しかし実際には後から造られたと思われる上西門、上東門を加えて宮城を囲む門(禁門)は14門となります。
※橘逸勢は、延暦元年(782年)に生まれ承和9年8月13日(842年9月24日)に亡くなったとされる平安時代初期の公家(貴族)。橘奈良麻呂の孫で橘入居の末子です。官位は従五位下・但馬権守(贈従四位下)とそれほどの高位ではありませんでしたが、(入唐して書を学んだ)書道家としては大変有名です。但し、その死は謀反を疑われての流罪途中の病死という悲惨なものでした。
※空海(諡号は弘法大師)は、宝亀5年(774年)に誕生し承和2年3月21日(835年4月22日)に亡くなったとされる平安時代初期の高僧で、真言宗の開祖です。遣唐使の留学僧として中国で密教を修行しますが、書道に関しては、王羲之や顔真卿の書風に影響を受けたとされ、また篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白等のすべての書体で能書を発揮しました。
この3人が活躍した時代、晋唐の書風が流行し、嵯峨天皇も唐風を好んで橘逸勢や弘法大師らと共に晋唐の書に範をとった素晴らしい書を多く残しました。
彼らは、晋唐の書の模倣を行っただけではなく、唐風の書道を日本独特の気風に溢れた気魄あるものへと進化させたのです。
中でも弘法大師(空海)は、この「三筆」においても能書として最も重要な立場の人物であり、以後の世に及ぼした影響は大変大きいとされ、我国書道史上最大の巨人であり不世出の能書家だと云えるでしょう。また、その重厚で装飾的な書流は大師流と呼ばれています。