また、戸田重政(勝成)の部隊は大谷勢の先鋒(北陸衆のひとり)として奮闘していたが、小早川秀秋の裏切りで壊滅に瀕した。敗走する途中で重政は長孝隊に迷い込み、混戦の中で長孝の槍を頭部に受けて討たれたとされる。但し、この槍働きは長孝ではなく津田信成(織田氏の縁戚で秀吉の家臣だったが、関ヶ原では東軍に参加。戦後に御牧藩主、後に改易)であったとする異説もある。また、有楽斎やこの信成をはじめとして東軍諸将の中には重政(勝成)の友人が多数おり、『武功雑記』等によれば、その死を聞いて皆が涙したという。更にこの合戦では、重政の嫡男である内記(重典とも)も同じく織田勢に打ち取られている。
更にこの合戦直後の逸話としては、徳川家康の前での論功行賞の際、長孝が戸田重政(勝成)を討ち取った際に使用した名槍が披露されたが、家康の近侍が誤ってこの槍を取り落として穂先が触れた家康は指を傷つけてしまう。その時、家康は「この槍は尋常の槍ではないな。もしかして村正の作刀ではないか? 」と聞いたところ、まさしく有楽斎は「村正で御座いまする」と答えた。
後に家康の家臣から徳川家と「村正」の刀剣の因縁を聞き及んだ有楽斎は、「徳川家の御味方である当家がこの槍を所持するのは悪しきことだ」として、その槍を粉微塵に砕いてしまったという。そして即ちこの話は、長年、代々にわたり徳川家を呪った妖刀・村正伝説の一つとなっている。
こうして家康から恩顧を受けたにも関わらず、関ヶ原の合戦以降、有楽斎は次男で嫡男の頼長と共に今度は大阪城の豊臣家に近づき、姪である淀殿を補佐する意向を表明して冬の陣までは大阪城への出入りを繰り返していた。
この頃の有楽斎は豊臣秀頼の後見人として、秀頼と徳川家康との会見に際してはその実現に向けて強く反対していた淀殿を説得したりと、徳川側との和平の道を模索して交渉の仲介役を務めながら、なんとか勝ち目のない戦を回避するべく尽力した様子が窺えるが、その姿は常に中途半端で及び腰である。
そして大坂冬の陣が起きた際にも大坂城にあり、大野治長らと共に穏健派の長老格として豊臣家を支えた。だが一方で、嫡男の頼長は強硬派の急先鋒として、穏健派や和平派と激しく対立していた。
当時、有楽斎は冬の陣における堺攻撃(徳川勢の補給路を叩き、軍需品を徴発する為に堺の街を豊臣方の槇島重利・赤座直規・新宮行朝らが占拠・焼き討ちした事件)の際に捕らえた今井宗薫を赦すなどの穏健的な行動が目立つのに対し、息子の頼長は片桐且元の殺害を企図したり織田信雄を豊臣方の総大将に担ぎ出そうと計画するなど、その過激な言動は徳川側に強く敵視・警戒されるだけではなく、見方の豊臣方武将の間でも反発を受けていた。更に彼は、父親の有楽斎とも対立姿勢を鮮明にしており、冬の陣の最中にも病と称して戦闘に参加しないなどの不審な行動が目立ち、遂に夏の陣の前には、自らを総大将にと主張して諸将の反対にあって大阪城を出奔することになる。
冬の陣終結後、二の丸・三の丸を棄却し外堀を埋めることと、淀殿を人質としない替わりに有楽斎・治長より人質を出す形で講和がまとまるが、その後の豊臣方においては良識派の牢人の多くが大阪城を去り、残った者たちの間でも自暴自棄的な考えが大勢を占め、穏健派・和平派の力はみるみる低下していくことになる。
こうして再戦の機運が高まる中、有楽斎は家康や秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味である」と申し送り、徳川方の了解を得て豊臣家から離脱、大阪城を去って京都二条にて隠棲した。
だが有楽斎の大坂城退去の理由は、自身の指導力・影響力の低下といったことのみならず、子息・頼長の奇矯な振舞いも、その原因のひとつとされている。
しかしここで大きな謎が浮かぶのだ。有楽斎の大坂城退去は(大いに反目していたハズの)嫡男・頼長と(きっちりと示し合わせたかのように)行動を伴にしており、その後の京都での隠棲生活でも頼長と共に茶道に専念し趣味に生きたとされる。しかも彼は、一旦、豊臣家に重要な役割で加担したにも関わらず、陣後、大名の地位を安堵され、更に独自の有楽派を開くなど茶人としても大活躍して江戸や駿府の町を幾度も訪れたとされているのだが、この節操の無さは、誠にあっぱれである・・・。また、あれだけ対立していた(と見える)頼長も、父の創始した茶道・有楽流をすんなりと継いでいるのだから、これまた不思議ではある。
そしてこの様な経緯から、有楽斎もしくは彼ら親子が、従前から徳川方のスパイとして豊臣方へ潜入していたのではなかろうかという説が生まれるが、それも致し方のないことだろうと思われるが、この点は後述の頼長の項で再度触れたい。
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