元和元年(1615年)8月、有楽斎は四男の織田長政、五男・織田尚長にそれぞれ1万石を分与して、残りの1万石を自らの隠居料(養老料)として手元に残した。
この長政が戒重藩(後の芝村藩)、そして尚長が柳本藩の藩祖であり、いずれも小藩ながら外様大名として明治維新を迎えるまで存続し、明治期に入ると両家ともに華族となり子爵の位を与えられた。更に各々の藩主の庶子は、渡会や溝口などといった別姓を称して家臣に下った。
しかし、有楽斎が自分の隠居料として残した1万石は、彼の死とともに徳川幕府に収公されてしまった。
さて、有楽斎の開いた茶道・有楽流は、特に大名茶と呼ばれ、師匠の利休の教えとは少々異なって「武士の茶道」として独自の茶風を確立したとされる。
その茶風は、優雅で気品があり、凛とした美しさを持った点前が特徴とされる。また簡素でシンプルさを追求し華美であることをとことん排除する。そしてなにより「客を饗なす」(有楽の茶は、客をもてなすをもって本義となす)ことを優先し、ついで古人に倣って研鑽する中から創意工夫を生むことを良しとした。
この有楽斎の茶道は、嫡男(次男)の頼長、四男の長政、五男の尚長などに受け継がれたが、頼長の系統は有楽斎の孫の長好(頼長の子)の死亡で絶え、その流れは信長の孫である織田貞置が引き継ぎ、これを貞置流という。そして貞置流織田家は高家旗本として幕末までに至る。また貞置の甥にあたる織田貞幹は尾張藩に仕えて有楽流を伝え、現在も尾州有楽流として続いている。
有楽斎の四男である長政の系統の大和芝村藩や五男・尚長の系統の大和柳本藩の家中に伝わった有楽流の茶道は、明治維新以降は他の武家茶道の諸流派同様に凋落したが、昭和になってから芝村織田家(長政の末裔)を宗家として再興された。
元和4年(1618年)、有楽斎が隠居所として再興した京都の建仁寺・正伝院に建立した二畳半台目の茶室「如庵」は、現在、国宝に指定されており、愛知県犬山市に現存する。そして当時、荒廃が進んでいた建仁寺・正伝院の修復(庭園や茶室の造営・建築等を含む)に関しては、多額のコストを費やしたと考えられ、その頃の有楽斎の織田家が財政的にも、相当に恵まれていたことを証明している。
ちなみに、茶室で国宝に指定されているのは、他に千利休「待庵」と小堀遠州の「密庵」のみである。また現在、(明治期に名称が変更された)正伝永源院には有楽斎夫妻や孫の長好らの墓があり、有楽斎夫妻、孫娘(頼長の娘)、兄の信包らの肖像画も伝わっている。
また、東京都千代田区にある有楽町の地名は、江戸時代に同地周辺に有楽斎の屋敷があったことに由来しており、更に数寄屋橋は有楽斎の数寄屋/茶室があったところとされている。しかしこれは、「有楽」の文字が同一なことから生まれた俗説ともされ、明治初期に有楽町は近隣の永楽町とのペアで命名されたもので、有楽斎とは直接、関係ないとする説の方が有力である。そして更に、有楽斎の屋敷が同地周辺に存在したことも史実としては確認されていないとする説もある。ただ明確なのは、江戸時代中期の頃から、同地が有楽ヶ原と呼ばれていたということである。
かつて大阪にも、有楽町(うらくちょう)があった。現在の阪堺電車・阪堺線の北天下茶屋駅と聖天坂駅の中間に位置する地域で、この辺は以前は有楽町が正式な町名であった。 だが第二次大戦後の度重なる区画整理などによって、1973年頃にはこの町名は消えてしまったという。
元和7年(1621年)12月13日、茶人として悠々自適の晩年を送った有楽斎は、京都にて享年76歳で死去。墓所は京都府京都市東山区の正伝永源院で法名は「正伝院如庵有楽」である。
同じ兄弟でも兄の信長とは随分と性格が異なり、残虐な行為や人殺しを極端に嫌っていた有楽斎。傍近くで信長の行いを見ていた近親者として、それこそ兄を反面教師と捉え、たとえ戦国の世の武将としては失格であっても平和で穏やかな生活を希求し、有職故実や茶の湯の道に通じることで自らの生きる目的や世界を見出したのであろう。少なくとも、茶道の大家としては一家を成すことに成功はしたのだから・・・。
散々「卑怯者」と陰口を叩かれながらも、また「逃げの有楽」と蔑まれても、ぶつかり合うことで発生する殺戮を回避しようと心に決めていたかの様である。当時としては間違いのない腰抜け武者ではあるが、彼の様な態度で戦乱の世を生き延びた男の生涯も、今からみれば、それなりの価値があるのかも知れない。
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