《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -12》 織田家の面々、織田長益・頼長親子と織田昌澄 〈25JKI28〉

織田頼長について

次に、有楽斎の子の頼長について解説を試みよう。織田頼長(おだ よりなが)は、天正10年(1582年)に生まれ、元和6年9月20日(1620年10月15日)に亡くなったとされる。生母は有楽斎の正室の平手政秀の娘・雲仙院。その為、頼長は次男だが嫡男とされる。別名として秀信、長頼がある。通称は孫十郎、左門、雲正寺道八などで、官位は父親と同じく従四位下・侍従。

父の有楽斎と共に豊臣秀頼に仕えた(「頼」および別名とされる秀信の「秀」の字は、秀頼からの偏諱とされる)が、慶長13年(1608年)1月には秀頼の指示で徳川幕府への年賀の使者として江戸に赴いたとされる。

慶長14年(1609年)7月、公家・猪熊教利(猪熊事件を引き起こした超絶美男子の淫乱不良公家)の逃亡を幇助したことで処罰を受けて豊臣家から離れたと伝わるが、『徳川実紀』では猪熊教利の逃亡に関与したのは織田長政であるとされている。但し筆者の見解は、その事跡や性格的にも教利を助けたのは長政ではなく、当時、傾奇者(かぶきもの、派手な身なりをして奇抜な言動を行う等、当時の常識を大きく逸脱した行動をとる者たち)として名を馳せていた頼長であろうと思う。

その後、慶長18年(1613年)2月20日には、京都に逗留していた木下延俊(豊後日出藩主の大名で茶人。豊臣秀吉の正室である高台院/北政所・おねの甥で、兄弟には小早川秀秋など)を訪問したとされている。また延俊の『慶長日記』によれば、延俊は同年、織田有楽斎とも面会、大阪で非公式に豊臣秀頼にも目通りしてたとの記述が残っている。

 

その後、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件に関連して、片桐且元(豊臣秀吉子飼いの武将で、賤ヶ岳の七本槍のひとり。傅役として豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的と誤解され大坂城を退出して徳川方に転じたとされる大名)が大坂城からの退去を余儀なくされるが、この頃には頼長は豊臣家に帰参を許されたとされており、直後の大坂冬の陣では父の有楽斎と伴に大坂城に篭城することになる。だが頼長は、当時の大阪城内では強硬派の中心人物の一人として、穏健派・和平派の諸将と鋭く対立していく。

冬の陣で頼長は、二の丸玉造口などを雑兵を合わせて1万人余の兵力を指揮して守備するが、部下の喧嘩騒ぎを切っ掛けに、徳川方の藤堂高虎勢からの攻撃を受けて谷町口の戦いが起きる中、頼長は病気と称して(酒盛りの最中だったとの話もあり)一切の指揮を執らなかったとされる。一説には、これは藤堂高虎と頼長とが示し合わせた上での謀略(徳川方スパイ説の具体例)ともされている。

また篭城中のエピソードで有名なものとしては以下の様な話(『明良洪範』より)が伝わっている。それは、彼が秀頼の名代として城中の諸将担当地区を毎日一度づつ廻り、視察と激励を行う事となったが、頼長は最初の内は各持ち場を作法通り正しく廻っていたが、その内に具足を着せた市十郎という若い遊女を騎乗させて召し連れ始めた為に、諸将・諸卒は「軍中に女性を召しつれないのは古今定まった禁制であるというのに、今、大将の名代として城中を巡回する将が女人を同道するなどは、きわめて法外なことだ」と言い立てて、嘲った。

そしてある頼長と懇意な武将がこの事について、「かつて、九郎判官義経様は静御前を愛しみ、木曽義仲公は巴御前を戦場に召し連れたとされますが、両将ともに決死を目前にしてはその様な事は行ってはおりませぬ。貴殿は、いったい古の名将から何を学んでおられるのか? 」と意見したところ、流石の頼長もこれを聞いた時には赤面しながら、「拙者がどうして両将から学ばないことなどがあるでしょうか。この者は火急の御用があった場合に秀頼様に御使者として遣わす為を考えて召し連れていたものなのです。但しご意見を承り、今後は直ちにこれを改めることに致しまする」と述べたと伝わる。

この話は最後は体良くまとめられた形となっているが、ある意味ではいかにも傾奇者らしい行動とも言えるし、頼長の非常識な行いの一端を示している逸話でもあろうが、果たしてどこまでが本当なのだろうか・・・。

 

その後の元和元年(1615年)4月、頼長は夏の陣勃発の前に豊臣氏を見限り父の有楽斎共々大坂城を退去している。一説には、豊臣方の総大将の地位を望んだが叶わなかった為と伝わるが、これもはなから無理な話に思える。例え織田信長の甥であり秀頼の親類縁者(従兄弟叔父、秀頼の母・淀殿の従兄弟)であろうとも、武将としての経験も実績も全く無いに等しく、しかも傾奇者として非常識・無責任極まりない彼に、秀頼の代わりに総大将となることを大野治長らをはじめとする諸将が認める訳はなかった。

そして大坂城退去後は前述の通り京都に隠遁、茶の湯の道に専念して有楽流を継承することになるが、この辺にも疑問が生じるのだ。即ち大阪城にあっては、主戦派の中心人物として華々しく振る舞っておきながら、なかんずく豊臣方の総大将の地位を望んでいた武将ともあろう者が、あまりにも従容と隠棲生活に入る様は不思議に思えてならない。

やはり籠城中の行動は虚偽の姿であり、始めから豊臣方を攪乱することを目的に、徳川家康の密命を帯びて大阪城に潜入したかの様に考えられなくもないのである。とすれば、もともと彼には傾奇者の傾向があったとしても、更にその点に一段と磨きをかけて極端な言動を実行することで、豊臣家内に揺さぶりをかけることが目的だったのだろう。つまり退去後の姿は、本来の常識を有した頼長に立ち戻ったものであるとしたら、その後の彼の生活態度はすんなりと頷けるのだ。こうして益々、徳川スパイ説が真実味を帯びてくるのだった・・・。

 

こうして織田頼長は、元和6年(1620年)9月20日、京都において39歳で死去した。その亡骸は京都東山の長寿院に葬られている。正室は無いが、『系図纂要』等によれば教如(東本願寺第12代法主)の娘を室としている。長男には長好、長女に一条昭良(後陽成天皇の第九皇子で関白・摂政)の室がいる。

そして有楽斎が頼長の遺児の長好を引き取って育てていたものの、前述の様に自身の相続者としての届出を出さないままに死去しており、彼の養老領1万石は除封となった。

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