織田長孝について
有楽斎の長男である織田長孝(おだ ながたか)についても触れておこう。生年は不詳であるが、慶長11年7月5日(1606年8月8日)に亡くなったとされている。美濃野村藩(美濃国大野郡内において1万石、現在の岐阜県揖斐郡大野町周辺)の初代藩主で別名は長一とも。幼名は赤千代で、通称は源二郎であり、官位は従五位下河内守。
正室はいないとされている。長男に長則、次男が長政(通称は織部、加賀藩前田家家臣で人持組席次18番、2.6千石)、三男は織部(加賀藩の支藩大聖寺藩前田利治に仕え3千石を領す)、四男は村井長光(加賀藩家臣・村井長次の養子)、娘が5人(不破光昌室、岡田善同正室、木村重成室、津田某室、本多景次正室)など4男5女に恵まれた。
関ヶ原の合戦の戦功により長孝が立藩した野村藩は、寛永8年(1631年)7月、長孝の子・長則が嗣子なくして死去したため、無嗣断絶により廃藩となった。
既に触れた通り、長孝は有楽斎の長男であるものの生母は正室ではなく嫡男ではなかった。その為、長益の嫡男は前述の次男・頼長である。
織田昌澄について
続いて紹介するのは、織田昌澄(おだ まさずみ)である。彼は、天正7年(1579年)に生まれ、寛永18年3月26日(1641年5月5日)に亡くなったとされる。津田信澄の長男で、生母は明智光秀の娘とされる。別名として信重、また通称には庄九郎、三左衛門、主水などがあり、号して道半斎と名乗った。
昌澄の父親の津田信澄は、弘治元年(1555年)に織田信行(信勝とも、織田信長の弟)の嫡男として生まれる。弘治3年(1557年)に信行は謀反の企てを起こしたとして信長によって誅殺されるが、幼少であった信澄は祖母の土田御前(信長と信行の生母)の助命嘆願などにより赦されて、柴田勝家の許で養育された。この様な経緯もあってか、信澄は以降、津田氏を称したとされている。
その後、信澄が大溝城主の時に嫡子の昌澄が誕生したが、明智光秀とその継室である妻木煕子の娘が生母であった為に、昌澄は光秀の外孫ということになる。
さて時は流れて、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた際に、光秀の娘婿であった織田信澄は明智方に内通したとの疑いをかけられて、織田(神戸)信孝(信長の三男)と丹羽長秀(信長の重臣)により摂津国野田城を襲撃されて殺害された。だが信澄への嫌疑は、信長一門衆の間での争いに端を発した謀略であり、実際には無実であったとの説も有力である。つまり津田信澄は、父の信行が信長に対し謀反を企てたにも関わらず信長からその才覚を気に入られて厚遇されていた為に、後継者争いでは(凡庸な)信孝の脅威となる人物であったのだ・・・。
その直後、羽柴秀吉が山崎の合戦で明智光秀に勝利する中、父であり夫の信澄を失った昌澄母子は、以前に一時期、磯野員昌の養子となった信澄の家来であったことのある、当時は羽柴秀長(秀吉の弟)の家中にあった藤堂与右衛門高虎のもとへ身を寄せたと伝わるが、謀反人の妻と子を受け入れる側の高虎にも、大変大きなリスクが伴ったと思われるのだ。
これ以降、高虎はこの母子を庇護して信澄を芦尾庄九郎と名乗らせ、その後、庄九郎は藤堂家の家臣として文禄の役に出陣したりもしている。
後年、徳川家の千姫(家康の孫娘)が豊臣秀頼に輿入れするに際して、庄九郎の母が明智の娘であり徳も教養もあるとして千姫の上臈に抜擢され、これに付き従って(高虎から受けた御恩も顧みずに)庄九郎も大阪城に向かい秀頼の家臣となったとされるが、現実には庄九郎こと昌澄は、藤堂高虎側からの正式な斡旋で豊臣家中に入ったのだろう。但し、秀吉存命中に既に豊臣家に仕官していたとの説もあり、この場合は秀吉の死後も引き続き豊臣家(秀頼)に仕えたとなろう。
そして信澄は、大坂冬の陣において以前に世話になった旧主の藤堂高虎勢などと戦って活躍、勇名を馳せて秀頼から褒賞を受ける。
やがて夏の陣で大坂城が落城した後、徳川方に出頭した彼は高虎の執成(とりな)しを受けて徳川家康に助命されたとされる。また他説には自ら命を絶とうとした昌澄を、高虎や徳川秀忠が慰留して自害を引き留めたともいう。
そしてその後、剃髪して道半斎と号し、元和4年(1618年)11月には将軍・徳川秀忠に交代寄合の旗本として召し抱えられ、近江甲賀郡内などで2千石を与えられた。
やがて道半斎は、寛永18年(1641年)3月26日に死去、享年は63歳。家督は次男の信高が相続した。以降、彼の子孫(長男の勘七郎は大坂の陣で討死)は、織田家と明智家の血を受継ぎながら徳川幕府の旗本として幕末まで続いた・・・。
この様に昌澄は、藤堂高虎によって人生で二度も命を救われたのであった。助ける側の高虎にもそれ相応の覚悟が必要であったハズであり、この高虎の尽力・助力を昌澄はどう受け止めていたのろうか。損得勘定を抜きにした高虎の行動は、二人(もしくは両家)の間の奇妙な縁を感じさせずにはおかない。
だが、常識人であれば高虎に対して終生只々ひたすら感謝の念を抱いていたに違いない昌澄だが、筆者が思うには、意外にのほほんと、それほど重要なことと思わずに結果を受け入れていた彼を想像してしまうのだが、読者の皆さんは如何だろうか。得てして世間には、そういったお目出度い人物がいるもんである・・・。
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