【太平洋戦争】 優駿 日本海軍 巡洋艦物語!! 第2回 軽巡洋艦 『阿賀野』 -前編- 〈3JKI00〉

2.高角砲について・・・・・主砲と同じく、対空砲である高角砲も新型の60口径98式8センチ高角砲が装備された。これは既存の巡洋艦で広く採用された40口径3年式12.7cm高角砲ではなく、小型でコンパクトな船体に適合させる為に空母『大鳳』や『秋月』型防空駆逐艦、そして軽巡『大淀』にも装備された65口径長砲身10センチ高角砲を小型化した高角砲であった。この兵装は昭和13年(1938年)に採用された新式砲だったが、日本海軍でこの砲を実際に搭載したのは『阿賀野』型軽巡だけであるが、『伊吹』型の空母にも搭載予定だったとされている。

ところで、この高角砲の実口径は7.62センチ(3インチ)であり、砲弾重量は5.99kg。砲身の最大俯角は10度、最大仰角は90度、旋回角度は舷側方向を正面0度として左右に150度の旋回角度を有していた。初速は毎秒900mで、発射速度は1門当たり毎分26発(25発とも)であった。射程は1万3,600mに達し、最大射高は9,100mという優秀な対空砲だった。砲身の上下や砲塔の旋回、並びに砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われたが、一部補助に人力を必要としたとされている。そしてこの高角砲は、煙突を境にして防盾の付いた連装砲架で片舷1基ずつ計2基4門が配置されていた。

しかし対空兵装の数的な貧弱さについては、用兵側から計画当初より様々な意見が出されていた。片舷2門の高角砲戦力では対空威力があまりにも弱体であり、その対空砲力の不足は致命的ともされたのである。

せめて片舷砲数を倍の4門にするか、それが困難ならば40mm、25mmといった機銃を多数装備するのが良いのではないかという意見もあった。更には、逆に高角砲を減じてその分の重量で機銃を満載してはどうかという論調もあったが、射程の短い機銃のみでは中長距離の目標に対して効果的な対空防禦を実施出来ないという考えから、高角砲をなくして機銃のみという意見には反対の声が多く、最終的には原案の通りに落ち着いたとされている。(後に25mm機銃が多数増強されているが・・・)

中には、魚雷発射管をすべて撤去して対空火力を著しく強化して敵航空戦力を撃退、麾下駆逐艦の雷撃進路を啓開するのが旗艦運用としては最適ではないかという意見もあった。後の太平洋戦争での戦訓から、この意見が空母や輸送船を護衛する戦隊の嚮導艦(指揮艦)としての運用においては、かなり正しい考え方であることが実証されるのだった。

また、ちなみにこの高角砲も現場用兵サイドにとっては不満のある兵装であったとされる。昭和19年(1944年)1月1日にニューアイルランド島カビエン沖で米軍機の空襲を受け小破した姉妹艦の『能代』からは、「高射砲に故障が続出するので動作確認が必要だ」との報告がされており、同年10月25日のレイテ沖海戦のサマール沖砲撃戦で奮戦した同じく姉妹艦の『矢矧』は、戦闘終了後、この高角砲を65口径長砲身10cm連装高角砲に換装して片舷2基計4基8門に増数するよう要望したが、実現には至らなかった。

 

3.機銃について・・・・・当初は高角砲の他に近接火力として60口径96式25mm機銃を三連装砲架で艦橋の前の張り出し部分に片舷1基ずつ計2基6門を配置していたが、竣工後の1943年には後部マスト付近に同じく25mm三連装機銃2基を増備している。

また『能代』は竣工当時からこの三連装機銃を4基12門装備していたが、前述の1944年1月1日の対空戦闘の後に「飛行甲板に25mm機銃を増設したい」と強く要望、これによりマリアナ沖海戦出撃時などでは三連装機銃4基と単装機銃8基を増備して合計の設置数は32門となった。その後、更に増設は進み、10月の捷一号作戦時においては25mm三連装機銃が10基、単装が18基(総計48門)と大いに増えている。

別の姉妹艦『矢矧』においては、竣工時から三連装機銃6基18門を持ち、1944年に25mm三連装機銃4基、同単装10基を追加装備し、1945年には更に単装機銃を10基増備したとされる。

前述のカビエン空襲時の第二水雷戦隊戦闘詳報では、「而して現米国の急降下爆撃は艦尾方向より来襲するもの多く、之に対し『能代』型現対空兵装は艦尾方向に対しては銃火指向少し、艦尾方向に対する火力集中を十分ならしむるを要す」とされており、艦尾方向に向けた対空機銃の充実を要望している。

即ち用兵現場においては、『阿賀野』型の防空能力の改善、つまり対空火器の増強は焦眉の急である、との認識が広がっていたのである。(但し、この点は『阿賀野』型軽巡に限らず、ほとんどすべての作戦行動中の艦艇に当てはまったのであるが・・・)

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