《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -16》 山名堯熙・山名堯政、毛利秀秋 〈25JKI28〉

前回の 《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -15》で触れた山名堯熙・堯政の親子と同じく足利幕府重臣の斯波家に連なる毛利秀秋の三人について、今回は解説していこう。但し、この山名親子を取り巻く人物各々の関係性は複雑であり、またその存在や事績についても不明点が多く、学説等も確定していないことを了解願う。更に毛利秀秋の最後は、大阪夏の陣にて同姓の誼により毛利勝永に与力して天王寺・岡山の戦いで討死しているが、勝永とは特に縁戚でもなく、中国地方の雄・元就の毛利氏とも無関係である。

 

山名氏正紋『五七桐七葉根笹』

山名堯熙(やまな あきひろ/たかひろ)は、但馬国の守護大名・山名祐豊の三男(次男とも)として生まれた。名は氏政とも。因幡守護となった後に死去した長兄の棟豊や次兄の義親の代わりに山名氏本宗家を継承したとされる。また長命であった父の祐豊との連署での文書が多く残っており、家督継承後も隠居の父の発言権が強かったと推測される。

父の祐豊は、叔父で但馬守護の山名誠豊の後継者(誠豊の養子)となり、大永8年(1528年)の誠豊の死を受けて山名氏本宗家の家督を継いだ。天文17年(1548年)頃には因幡守護で一族の山名誠通を破り因幡国の東部をも支配下に置いたが、尼子氏や後に毛利氏と対立、やがて但馬に侵攻して来た織田軍とは暫しの抗戦後に味方として属する形となっていた。しかし天正3年(1575年)に重臣の太田垣輝延らが毛利方の吉川元春と勝手に和睦(芸但和睦)してしまった為、織田信長から離反して毛利側についたと見做され、天正8年(1580年)には織田方の羽柴秀吉に居城の有子山城を攻められて降伏、祐豊は開城後まもなく死去した。

羽柴勢の攻城中に父と意見を異にした堯熙は、城から脱出して隣国の因幡国へ逃れたとされる。そして羽柴軍の陣を訪問したところ、秀吉に登用され家臣となった。天正9年(1581年)には因幡八頭郡に2千石の領地を給された(領地を得たのは前年との説もあり)。秀吉から市場城主に任ぜられ、この城から山名豊国(後述)らの籠る鳥取城攻めに参加しており、鳥取城が落城して因幡国の平定が完了すると羽柴家の馬廻衆の一人に加えられたと云う。

こうして秀吉に仕えた堯熙は、天正10年(1582年)8月には播磨国加古郡に転封となり2千石余を領した。朝鮮出兵には御伽衆として参加、秀吉亡き後も子の堯政と共に豊臣秀頼の傍近くに仕えて、慶長17年(1612年)9月28日には更に摂津国能勢郡与野村にて500石以上(596石2斗)が秀頼により加増(最終的には合計5千石の領地を得たとも)されている。

やがて大坂の陣に参陣、その結果、豊臣家は滅亡する。堯熙は夏の陣を生き延びて京都六条の屋敷にてに閑居・隠棲、晩年を過ごした。彼の没年および墓所については諸説あるが、寛永4年(1627年)に死去したともされ、法名は円成院殿一翁紹仙居士。 墓は東林院内の山名豊定(堯熙の父・祐豊の弟)の子である山名豊国(後述)の墓の左隣にあると伝わる。またこの閑居の間は、既に徳川家の大身旗本となっていた豊国の扶助があったともされる。

 

山名氏替紋『糸輪二ツ引両』

山名堯政(やまな あきまさ)は、山名堯熙の子。父・堯熙に次いで豊臣秀吉に仕え、馬廻衆に任じられる。しかし秀吉の死後、動向が一時不明で家康に登用を請うも許されなかったとする説がある。結局は豊臣家の家臣として帰参したが、あえなく大阪夏の陣で討死したと云う。但し、この様な経緯から牢人として入城した可能性も残っている。一方では豊臣家の直臣として常に秀頼に近侍し、夏の陣で大坂城内にて秀頼を守り戦死したともされている。また彼と共に秀頼に近侍した旧室町名族には、細川京兆家の細川頼範や河内守護家の畠山政信(大坂の陣の前に徳川方に与したが‥)らもいた。

さてその後、堯政の長男である山名煕政(後の清水恒豊)は母に連れられ祖父の堯熙と共に潜伏、旧山名家の家臣であり、当時は既に幕臣であった清水正親が、自身の家督を譲ることで幕臣として取り立ててほしいと徳川幕府に申し出て、それが許されて清水氏を継ぐことになる。

だがその経緯(いきさつ)は、生き残った堯熙が堯政の子(自らの孫)の煕政(当時8歳)およびその弟・煕氏による自身の家系である堯熙流山名氏(但馬守護・山名本宗家筋)の家名存続を意図した結果、如何様にしても大坂の陣に豊臣方として参加した豊臣旧臣である家系の存続は困難であると解り、そこで煕政は既に徳川家の家臣となっていた清水正親の養子となることで清水家の家督を継いで幕臣として子孫を残したが、これにより堯熙流山名氏の家系は断絶したのだった。ちなみに清水正親は煕政の曾祖父である山名祐豊の旧臣であったが、天正18年(1590年)以降、徳川家康に仕え、この時の家禄は280俵であったとされる。

やがて山名改め清水恒豊は徳川家の家臣として歳を重ね、延宝7年(1679年)5月16日に死去。その時点での家禄は480石。墓所は龍興寺に在り、法名は清厳慈円居士である。

また、この一連の清水家々督相続の流れには幕臣・山名豊国(既出)の計らいがあったと云われるが、彼は天文17年(1548年)に但馬山名家の山名豊定(山名祐豊の弟)の次男として生まれた武将で、堯熙の従兄弟にあたる。但し厳密には、山名祐豊が叔父の養子となっていたことから系図上は再従兄弟(はとこ)扱いになる。

豊国は、父や兄(豊数)など共に伯父の祐豊の東因幡攻略・支配(同族の因幡守護・山名誠通を討った)に加担して一時期、因幡国の岩井城主を務めたりもしていたが、その後の豊臣政権の時代は秀吉からの仕官の誘いも断り浪人・無禄であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、亀井茲矩勢に加わり活躍。慶長6年(1601年)には寄合旗本として但馬国内で一郡(七美郡全域)を与えられ6,700石を領した。

事実上、但馬守護・山名本宗家(祐豊・堯熙の家系)が断絶したこともあり、但馬山名家の血筋も引く豊国の家系が山名本宗家格となっていた。その後は家康・秀忠から篤い信頼を得て、駿府城の茶会などに参加するなどしている。寛永3年(1626年)10月7日に死去、享年79歳。

この豊国の子孫は、江戸時代を通じて大身の幕府旗本、表高家並寄合と交代寄合表御礼衆として存続した。ちなみに山名家は、同じ新田家を遠祖とするとして徳川家から厚遇(徳川幕府の正式な家譜では、松平家や酒井家と同格の血族待遇と)されていた。

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