当時、軍部が液冷式エンジンを希求した理由としては、出力が同じ場合には抵抗面積が空冷式の戦闘機に比べて20%程度も減少し、速度が6%も向上するとされていたことが挙げられる。ラジエーター分の重量が増すのが欠点ではあったが、この速度性能の高さは大変な魅力であったのだ。「ハ40」の原型であるDB601は、1936年にドイツで開発された液冷式で1千馬力級のエンジンであり、過給器に流体継手を採用しキャブレターではなく燃料噴射装置を採用した先進的な航空機用の発動機であった。
だが、この戦闘機についての後世の評価はいまひとつ芳しくない。その訳は、せっかく搭載した液冷式発動機の度重なる不調にあった。川崎航空機(現在の川崎重工業)がライセンス生産した「ハ40」は、生産の遅延に加えて故障が頻発した。また胴体の下部に設置された冷却器にも不具合が多発してしまう。(この頃、ニッケルの使用禁止により部品強度が低下していたともされる)
すなわち液冷式は、当時の我国の基礎工業力では安定した生産や運用が難しい構造の精密なエンジンであり、また修理部品や各種補給パーツの供給遅れを始めとして、未だ日本軍の整備兵が液冷式発動機の整備作業には不慣れであったこと等により、その保守・整備ともに多大な困難がつきまとい、現場整備兵には苦労の連続であったとされる。
更にその後、「ハ40」発動機を改良した「ハ140」にもトラブルが頻発して、発動機を搭載出来ない「首なし機」(発動機無し機体)が多数完成してしまう。そこで、この機体を活用して信頼性の高い空冷式発動機「ハ112-Ⅱ」に換装した改造機「キ100」、通称『五式戦闘機』が275機ほど製作された。この戦闘機は意外にも高性能(最高速度もそれほど低下せずに、逆に上昇力などは改善していた)を発揮して、三式戦闘機『飛燕』よりも前線の部隊からは歓迎されたというから皮肉なことである。
しかしこの様にトラブルを抱えていた『飛燕』を日本陸軍がなかなか手放すことが出来なかった訳とは、その強力な武装にあったとされる。それはB-29等の強力な防御力を有した米軍重爆撃機を迎え撃つ本土防空戦において、20mm機関砲(ホ5)を搭載していた陸軍機は、二式複座戦闘機の『屠龍』とこの『飛燕』のみだったのであり、そのことは極めて重要な『飛燕』投入継続の理由となったのだった・・・。
さてこの戦闘機が実戦に投入された当初、米軍は『飛燕』がBf109のコピー機であると推測したが、Bf109のラジエーターは主翼に設置されていて形状等が異なる為に、連合軍はこの機のコードネームを一旦、米国でのイタリア系移民の典型的な名前であった『Tony(トニー)』とする。
これは米軍が『飛燕』をBf109ではなく伊空軍のマッキMC.202のライセンス生産機と誤認したことによるとされているが、その後の調査で我国のオリジナル機と判明、1943年11月の「航空機識別帳」には修正して記載されている。
尚、本機は液冷式発動機を搭載したことで機首が長く、前方並びに下方視界は良いものではなかったとされ、対戦した当時の米軍パイロットからも、他の従来の日本軍戦闘機と比較して火力と降下性能は優秀だが、上昇性能と運動性能で劣り、旋回性も加速性もさして良くないとされた。
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