今回は淀殿の乳母であった大蔵卿局の息子たちで、大阪の陣においては豊臣方の首脳陣の一角として権勢を誇った大野兄弟を取り上げる。
特に長兄の治長は、当時の大阪城内において政治・軍事に関わる諸事のコントロール・タワーのポジションにあったが、その事績に関しての評価は芳しくない。後世の噂通り、超絶男前ではあったが近視眼的思考の単なる駄目男だったのだろうか・・・。
大野治長(おおのはるなが)は、永禄12年(1569年)に丹後国大野の周辺(現在の京丹後市)もしくは京都近郊で生まれたとされる(諸説あり)。父親は大野定長、母親は大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)であった。また弟に治房・治胤・治純の3人がいた。
父の大野佐渡守(もしくは修理亮)定長(道犬とも)は、一説には丹後国もしくは近江国の国衆であり、水軍を率いていたとも甲賀流の地侍(後述、近江国の大野氏)であったとも伝わるが、「鬼修理」と呼ばれた剛の者だった様である。近江浅井家に臣従していたとされるが、妻子ほどの記録が無く歴史上の確実な事績は見当たらない。浅井家滅亡の時に討死したとの説があるが、生き延びて丹後に戻って細川藤孝に仕えたとか、もしくは織田信長に仕官し信長亡き後は豊臣秀吉の家臣となったとされている(『宮津府志』等による)。
上記の近江国の大野氏に関しては、甲賀郡の大野村に大野宮内少輔の宅跡があり「大屋敷」と呼ばれた。宮内少輔は六角氏に仕え、その子は右近大夫といった。この大野氏は甲賀二十一家の中の山北九家の一つとされているが、定長の大野家との関係は不明だ。
他説(葉栗郡大野説など)には、定長の先祖である大野家は尾張国・石清水八幡宮の祀官の家であり、大野伊賀守治定という人物が定長の父親であったとされる(『尾張郡書系図部集』など)。そして治定が織田信長の命により尾張国葉栗郡馬美塚村に築いたのが、大野城と呼ばれる砦・防御を施した屋敷だ。また元来(がんらい)、尾張国には大野という地名が多く、この氏は知多郡大野庄より起こったとされ、源頼親の後裔にして大和源氏に属すると云われる。
ところで、治長と3人の弟はあくまで定長の実子であるとする説に立つと、大野兄弟の弟たちの推定年齢を考慮した場合は、定長は浅井家滅亡後も生きて活躍していた可能性は大きいと考えられる。
また大蔵卿局(名は小袖)の経歴(淀殿の乳母としての多忙な職務とその間は夫・定長とは別居していたとされること)を細かく検討すると、夫との間に治長以外の子供を産む物理的・時間的な余裕は見受けられず、結果として治房以下の弟たちは定長の実子だが大蔵卿局の子ではないとする有力な異母弟説もあるが、次兄の治房以降は異父、つまり定長亡き後に定長以外の別人を相手に大蔵卿局がもうけた子供であるとのごく少数説もあり、この場合であれば定長が早い時期に死亡していた可能性も否定出来ないことになり、真相は薮の中である。
一方、母の大蔵卿局は浅井家の家臣の娘であったと云われ、茶々(信長の姪で後に豊臣秀吉の側室・秀頼の母。以下、淀殿と呼称)の乳母となり、後に秀頼の教育係も務めた。但し、大野家の出自が尾張説であるならば、織田家に仕えていた治定の縁で織田家並びに市(淀殿の母親、信長の妹)を通して淀殿の乳母になった可能性が生まれてくる。
また彼女が近江の真野家出身であるとの説もあり、この場合は彼女の父親は七手組頭の真野助宗である可能性があるとされている。しかし筆者は両者の推定生没年を鑑みて、その年齢差があまりないことから二人は近い親族だったとしても親子ではなく兄妹だったと考えている。そうなると真野頼包(豊後守、助宗の子。但し要養子説あり)は大蔵卿局の甥となり、また青柳と称した秀頼の侍女で後に木村重成の妻となる娘が大蔵卿局の大姪(甥の娘)となる。つまり木村重成の室は、大野治長ら兄弟の親族だった事になる。更に『系図纂要』によれば、助宗は長将とも呼ばれ、その母親は織田信長の姉とされているそうだから、そこには非常に複雑な血縁関係が見えてくるが、この説の場合も信憑性は決して高くはないが、大蔵卿局が織田家所縁(ゆかり)の女性だったことが証明されるのだ・・・。
さて大蔵卿局の前半生については不詳だが、淀殿からの信任が厚く、秀吉存命中から豊臣家の政治・外交の任にも関わり合いを持ち、大坂の陣の頃においては豊臣家の中心人物の一人として権勢を誇る形となっていた。彼女の子には、治長・治房・治胤・治純の4人の息子(各々、後述)がおり、末子の治純以外は豊臣秀頼の側近として仕えた。尚、大蔵卿局の最後は、慶長20年(1615年)5月8日未明、大坂城落城の際に淀殿や秀頼、そして長男の治長と共に山里曲輪の籾蔵において自害したとされる。
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