【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態 第3回 〈25JKI00〉

【江戸時代を学ぶ】シリーズ “「寺子屋」の実態”の3回目である今回は、江戸時代の「寺子屋」における女子教育の実情や女性師匠の出現と活躍、そして「寺子屋」の年中行事などについて解説する。

巌如春(いわお じょしゅん)の作 加賀藩儀式風俗図絵 『寺子屋』 (浮世絵、昭和8年製作、金沢大学付属図書館所蔵)

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「寺子屋」における女子教育

我国の「寺子屋」教育の大きな特色の一つには、庶民の女子に広く教育の場を与えたことがある。そしてその裏付けの一つとしては、幕末から明治初年頃にかけて来日した多くの西洋人たちが、日本人の教育水準、特に女子のレベルの高さには非常に驚いたとされる記録が多数残されていることが挙げられよう。

例えば、万延元年(1860年)に来日したプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナー艦長は、他のアジアの大国である中国でも庶民の場合は男子だけが就学しているにも関わらず、日本では多くの女子が勉学に就いていることに大変驚いたと述べている。

また慶応元年(1865年)に来日したトロイアの遺跡発掘で有名なドイツの考古学者シュリーマンも、中国をも含めたアジアの他の国々では一般の女性たちが教育とは無縁であることに対して、日本では女性も文字を理解して読み書きが出来ることを大いに評価した。

そこで当時の来日外国人たちも驚いたと云われる、「寺子屋」による我国の女子教育の状況とその成果について、暫し取り上げてみようと思う…。

※ラインホルト・ヴェルナー(Reinhold von Werner, 1825年 ~ 1909年)は、万延元年(1860年)にプロイセンとドイツ諸邦の全権大使であったオイレンブルク伯爵と共に日本との間に和親通商条約の締結交渉を行う為に来日したプロイセン海軍の軍人で、輸送艦エルベ号の艦長である。また『エルベ号艦長幕末記』は、日本を訪れた際に彼が書いた航海記であり、当時を知る貴重な史料となっている。尚、この東洋への長途の航海からの帰国後、1874年には海軍提督(少将)へ昇進している。

※ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン( Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日 ~ 1890年12月26日)は、ドイツの考古学者で実業家。ギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアが実在すると考え、貿易などの事業で得た巨万の富を使って発掘を行い、その実在を証明した人物である。『シュリーマン旅行記 清国・日本』は、彼がペリー来航の1853年から12年後の1865年に日本を訪れた際の旅行記であり、当時の横浜・江戸や八王子などを巡って我国の風景や文化、日本人の風俗などを文章に残しているこれも歴史的に重要な史料だ。

さて、江戸時代の我国における庶民の女子教育の実情であるが、敢えて先ずは否定的な状況から話を始めたいと思う。現実には後(第4回)に述べる様に、時代や地域によっては女子の「寺子」がほとんど存在しない「寺子屋」もあった。やはり女子の教育は近世封建社会の身分・人間関係を基盤として、男子の教育と全く別のものとして考えられていたのだ。

当然ながら未だ江戸時代半ば頃までにおいては、女子には男子の様な学問による高い教育は必要がないものと考えられており、女子は女子としての心得を学び、独自の教養を修得するべきものとされたのだった。その為、女子の教育は主として家庭内で行なわれ、家庭外で実施される場合でも武家屋敷や商家などでの女中奉公を通じて行儀作法等を身に付けること等が重要とされており、学校形式の専門的教育機関への通学などの必要性はほとんど認められていなかった。

もちろん上流階級・富裕層の女子は習字や読書を行い、更には古典文学や諸芸能を学ぶ者もいたが、それは一部に限定されたことであり、一般的には近世封建社会における家庭の中の理想の女性像として、または妻もしくは母親としての“良妻賢母”的素養の修得に重点が置かれたのだった。

だが、こうした傾向が当時の女子教育の一般的な方向性ではあっても、江戸時代も後半にかけては「寺子屋」等や各種の芸事塾(第1回にて解説、主に単一の芸事を教える家塾)に学ぶ女子もしだいに増加してくる。それは、一般的な庶民階層の女子においても習い事などを熱心に行い諸芸を身に付けることが良縁に繋がる、という風潮が世間に広がって行ったことが影響していると考えられている。

特に玉の輿に乗ることを目指したり花嫁修業といった意味合いだけではなく、都市部に住み暮らす女性の場合は町人として必要な具体的な社会・経済に関する知識を学ぶと共に、庶民の女性の立身出世の手段・道筋の一つとしての、例えば高位の武家の奥女中として奉公したり豪商・大店の商家の女中に採用される為にも、一定の教養や礼儀作法を身に付けることは必ず必要であった。

特に文化・文政の頃(1804年~1830年)を中心として、町人の女子には武家に奉公することに人気が集まり、大名屋敷や江戸城大奥などでの奥勤め(御殿奉公)の女性を輩出した「寺子屋」や芸事塾などの家塾には入門者が引きも切らなかったとされる。

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