重複するが、江戸時代の女子には御殿奉公を通して金銭を稼いだり豪華な装飾品・着物などを身に付けたり出来るだけではなく、稀にではあるが身分制度を飛び越えて出世する可能性も開かれていた。即ち殿様の目に留まれば側室にさえなれる可能性もあり、そうでなくとも一定の年齢まで働いて退職すると、裕福な町人等に嫁げるといった慣行もあったのである。
※“玉の輿”という言葉の由来である桂昌院(けいしょういん)は、徳川幕府の3代将軍・徳川家光の側室で後に5代将軍となった綱吉の生母となり、通称を玉といった。その出自は西陣織屋の娘であったとか(朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』)、『元正間記』には大根売りの妹、『玉輿記』では実父は八百屋の仁左衛門だったとかの話が載っているが、俗説に過ぎないとの説が有力である。
この様に御殿奉公には多くの実利があったのだが、良い武家屋敷で奉公する為には、読み・書きばかりでなく、様々な芸事に通じていることが条件とされていた。そこで読み・書きばかりでなく、三味線や踊りといった芸事を身に着けさせる為に、多くの親は娘の教育に非常に熱心であったのだ。
尚、これらに関連した話題としては、例えば喜田川守貞の『守貞漫稿』には当時の女子の芸事習得熱に関して「…女子三絃・浄瑠璃を専らと習うこと既に百余年前よりの習風也。今世益比風にて、 女子は7、8歳よりこれを学ぶ。母親は特に身心を労して師家に遣る。江戸は特に小民の子と雖も必ず一芸を熟せしめ、 それを以って武家に仕えざれば良縁を結ぶに難く、一芸を学ばざれば武家に仕ゆること難し。 これに依り女子専ら三絃・琴の類を学ぶ…」と記されている。
※『守貞謾稿(もりさだまんこう)』とは、江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗、事物を解説した一種の類書(百科事典)で著者は喜田川守貞。起稿は天保8年(1837年)であり、以後、約30年間にわたり書き続けられたが守貞の存命中には刊行はされず、明治期になってから翻刻・出版されて江戸時代後期の風俗史に関する重要な文献となった。
※徳川綱吉の側用人・柳沢吉保の孫である柳沢信鴻は、自らの日記『宴遊日記』の中で、自分の屋敷の女中を採用する際に、三味線や琴の腕前を試す試験を実施していたことを記している。
しかし、未だ「寺子屋」への就学者数は男子に比べて少なく、また女子教育の内容は女性向けの道徳観に裏打ちされた独自の体系を形作っており、「手習い所」としての「寺子屋」もしくはそれ以外の家塾も含めた、裁縫・和歌・茶の湯・活花・琴・三味線あるいは礼儀作法などの女性的教養や芸事、すなわち女性特有の“嗜み(たしなみ)”が重要視され、まだまだ男子の教育とは異なるものであった。
こうした教育方針のもと、女子専用の教材が多数出現した。実用的な「手習い」の教材や「往来物」の他にも、特に『女大学』を始めとして『女論語』・『女訓孝経』・『女今川』・『女実語教』などの様に、著名な女子向け啓蒙・教訓書は何れも題名に「女」の語を冠したものが多いことからも、いかに女子教育を男子向けの教育と明確に区別していたかが分かるというものだ。
ところが、この様な考え方が江戸時代も後期、特に幕末に近づくにつれて徐々にだが変化していく。教育内容はより男子向けに近づき、女子でも希望すればレベルの高い「算用」や和漢の故事・歴史などを学ぶ機会も与えられていった。
※この様な風潮(就活や花嫁修業としての“資格取得”)を反映した作品には明治期に入ってからのものではあるが、明治6年(1873年)作の昇斎一景(しょうさい いっけい)の『娘教訓二面鏡』という浮世絵がある。ここに描かれている、良心を擬人化した“善玉”と悪い善からぬ心を擬人化した“悪玉”は寛政2年(1790年)に刊行された山東京伝の教訓的草双紙『心学早染草』から生まれた江戸時代の人気キャラクターである。この“善玉”・“悪玉”は、京伝の著作で大きな人気を得てその後の他作家も含めた様々な作品に登場するが、当時の読者にはこの丸い顔に“善”か“悪”が書かれた小人たちの姿が単純明快で分かり易かったと見えて、このキャラクターが活躍する一連の作品は一世を風靡した。
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